◇◇ 福林 淳周審判員 ◇◇


■その1
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 まず自己紹介をさせていただきます。 
 生まれは三重県の桑名市。小学校の2年終わりに母の実家である町田市(旧忠生村)に越してきました。
 わたし達のころは野球といっても三角ベース。グローブもなく、布で洋服屋さんに手袋の大きいのを作ってもらい野球をしました。 

 小学校、中学校とも町田の学校を卒業し、八王子の第二商業高校を卒業。社会人になり、野球とは一時中断されまたが、その後、結婚をして相模原市に住むことになりました。
 その時、小学校のグランドで子供たちが野球をしているのをみていて、最初はコーチとして子供たちと接するようになりました。

 その内コーチだけでは満足できず、審判の講習のあることを知り、受講することになりました。神奈川県は野球のメッカと聞いており、誇りを持って参加しました。神奈川県軟式野球連盟学童部の免許をもらいました。これが私の審判にのめり込むきっかけとなりました。

 地区で審判をしているときクリーニング店のお兄さんが、プロテクターをしないで球審をしているので、後で聞いてみましたら、座布団に紐をつけて審判服の下につけていたのです。その時初めてインサイドプロテクターのことを知った次第です。

 このようにして審判という趣味を見つけ「虜」になっていきました。

 審判をしていくうちに、それでは満足できず、別の方法を知りたく思っていたときに、日刊スポーツ新聞で社会人向けの審判講習会の記事を見つけ、受講することにしました。それが明治神宮外苑審判協会の第10回記念審判教室(昭和63年12月)でした。

 講習会は明治神宮外苑・軟式のグランドで行われました。講師の方たちは、富沢さん、井野さん、鷲谷さん、とプロの方たちに教授され、天にも昇る思いで勉強しました記憶があります。

 その時初めて主審1人でも審判が出来ることをまなびました。

 講習も無事終了し、記念にカウンターゲージをいただき、今でも記念に保管しています。

 その後、明治神宮審判協会ではいろいろのイベントがあり(1)大リーグ・審判の方の講習。(2)デミューロ兄弟による講習。といろいろと勉強しました。こからこの経験を生かして、選手の方たちに好かれる審判員を目指して努力していきたいと思います。

 今回、私の審判員としての出発をお話しました。よろしくお願いします。


(2003年8月1日)



 福林審判員が月に一度、書いてくれることになりました。余談ですが福林審判員は最近になってPCを覚えたばかりです。薦めたのは臼井です。先日、電話で奥様に「PCを薦めてくれまして、臼井様々です。感謝しております」と言われました。次は福林審判員の書くことへの「挑戦」に期待いたしましょう。(臼井)



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