◇◇ 平田 東審判員 ◇◇


■その(2)
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 夏の甲子園球場を沸かせた高校野球も、明徳義塾高の優勝で幕を閉じました。
 夏の地区予選の出場した4163校の各校野球部も、夏の大会が終わったあと、早いところでは次の日から、遅いところでも数日後には、1・2年生の新チームによる秋季大会に向けての練習が始まったものと思います。
 
 私も8月の夏休み期間中、地元伊奈高校(茨城県)の練習試合の審判を8試合ほど務めましたが、1試合に10個のエラ−をしたり、ノーコン投手が多かったりと、新チームの成績は芳しくなくて前途多難を思わせますが、今後の猛練習とオフでのトレーニングなど数倍の努力をして、来年の夏を目指して欲しいと思います。
  
 社会人の都市対抗野球も、今年限りで休部が決まっている、いすゞ自動車が優勝。またプロ野球も終盤戦を迎え、セ・巨人、パ・西武で優勝がほぼ決まった感があり、10月の日本シリーズは、巨人ー西武の間で94年以来5度目の対決が予想されます。

 軟式野球の市区町村の大会も早いところでは、9月第1週から秋季大会が始まりました。軟連に所属していない大会等も、リーグ戦は最後の詰めに、またトーナメントの大会も間もなく開始されるものと思います。

 野球を楽しまれている全チームの皆さん、2002年のシーズンが有終の美で飾れるよう、今後のご健闘を祈ります。

 私も9月13日現在、今年の審判活動は246試合を数えますが、第7回アークカップ関東草野球選手権大会(304チーム参加:9月8日スタート)、関東草野球リーグ(132チーム参加:4月からリーグ戦スタート・残日程)、第6回サタデーリーグ(12チーム参加:9月14日スタート)等の審判日程が入っていますので、最終的に300試合を越えるものと思っています。

 さて、本題の話の方を進めていきたいと思います。
 私は昭和14年5月に福岡県嘉穂郡幸袋町吉北で生まれました。後に幸袋町は飯塚市と合併しましたが、この飯塚市は五木寛之の小説で「青春の門」の舞台となった筑豊の中心地です。私が生まれた年に第2次世界大戦が始まり、日本も2年後の昭和16年に海軍の真珠湾への奇襲攻撃で戦争へ本格的に突入。戦地では多くの犠牲者を出し、やがて昭和20年3月の東京大空襲、次いで8月6日に広島、同9日長崎に原爆が投下され、広島で14万人、長崎で7万人の死者を出し、8月15日に昭和天皇の玉音放送がラジオを通して流され、日 本の全面降伏で終戦を迎えました。

 私の住んでいた筑豊地方(筑豊炭田)は、明治時代から石炭産業の地として栄え、かっては「黒ダイヤ」と呼ばれ、日本の戦後経済の復興を支え、エネルギー供給の王座を石油に譲るまでの長い間、日本政府の後押しなどもあって活況の時代が続きました。当時の筑豊地方には200ほどの大小炭鉱があり、住民の多くが炭鉱に関係した人たちであったといわれています。

 私は出生から小学校に上がる1年前の6年間、戦争と直面した幼少時代を過ごしたわけですが、親が度々勤労奉仕に駆り出されていたこと、アメリカ軍の飛行機が川に墜落したのを見にいったこと、母親が汽車で遠い佐賀や熊本まで食料の買出しにいっていたこと、終戦前か後か、または終戦当日かは定かではないが、アメリカ軍のB29が3機編隊で、空を覆いつくすほ ど何百機もの飛行機が轟音とともに飛来し、恐怖心から祖母宅に逃げ込み、家の片隅でいつまでも震えていたことを憶えています。

 戦争が終わって小学校へ入学する前に、父親も炭鉱従事者でしたので、社宅に空きが出たのを機に祖母宅の間借り生活から、小さな炭鉱の長屋(加茂炭鉱)へ引っ越しました。その後に弟3人が生まれ、私は4人兄弟の長男として高校卒業の19歳の春まで、この炭住長屋で暮らしました。

 私が野球というスポーツを始めたのは、小学校3年生(10歳)の頃で、炭住広場で上級生に混じって三角べースに興じたことが始まりです。

 当時の遊びといえば男の子は全員といっていいほど、野球をしていましたその中でも、私は人一倍野球というスポーツが好きになり、のめり込んでいきました。学校から帰るとカバンをおき(カバンは持っていたかどうかは忘れました)、勉強など放ったまま広場へ急ぎました。なぜ急いだかというと、遅れると人数の関係でその日の三角べースに加われないからです。

 広場には一人、二人と集まりだし、やがて2チーム分の人数が揃ったところで、力が一方に片寄らないように、同じくらいの年令同士でジャンケンを打ち2組に分かれます。両軍のメンバーが決まると、いよいよ試合開始です。ボールといえば、芯に毛糸や太い糸を巻きつけた手作りのもの、バットは近くの山で適当な木を乾かし削って、これも手作りのものでした。グラブなどは、少しお金持ちの子や兄さんたちが居るものは、本当のグラブ(昔はグローブといっていた)を借りてきたりし、また 布製のグラブのようなものをはめていました。私は貧乏でしたのでバットは借用、ボールは素手で捕りました。

 アクシデントといえば、試合中ボールの糸が解けて巻き直すまでの間、度々タイムがありました。またこの広場のライト側には障害物はないのですが、レフト側に少し大きな打球が飛んでいくと、そこに10頭近く飼った豚小屋があり、ボールがそこへ入ると当然またまたタイムです。今は河川敷ルール等ありますが、当時はどのようにルールを決めていたのでしょう?。ブタ小屋特別ルール適用なんてネ。この豚小屋にボールが入ると大変で、ブタの糞と洗い流した水が入り混じり、ドロドロのヘドロと異臭の中のボールを拾うわけですから、これだけは参りました。ボール拾いの役は当然の如く下級生の役目でした。

 ブタ小屋の持ち主には怒られ、靴はドロドロで家に帰ったら母親に怒られ、下級生はかわいそうでしたが、私は要領がよかったので、足が痛いだの、頭が痛いだのいってブタ小屋でのボール拾いは何時も逃れていました。

 今の若い人たちは三角べースの経験は多分ないと思いますが、その名の通り二塁がなくて本塁〜一塁〜三塁ですから、当然一塁と三塁の距離が物凄く遠く、走者一塁で外野へ大きなヒットを打っても三塁でフォースアウト、ということがよくありましただれが三角べースを考案したのでしょうネ。まさか、あの偉大なる大打者ベイブルース・・・・・ではないですよネ。

 それでも私は、この三角べースを通して野球の面白さを知り、とことんのめり込んでいくわけですが、60歳を越えての今日まで仕事よりも、家庭よりも、お金よりも野球を最優先して生きてきた自分を、負け惜しみでなく誇りに思っています。

 小学校5年生になると、小学校の野球部へ入部しました。現在の小学生は、学校でなく地域の父兄の方が指導していますが、当時は小学校に野球部があ先生が指導していました。小学校野球部への入部により、三角べースを卒業して四つの塁がある本格的な野球の第一歩を、踏み出すことになりました。

(2002年9月15日)



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