◇◇ 平田 東審判員 ◇◇


■その(3)
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 幼年期・少年期を戦争というものがどんなものかも理解できず、恐怖心だけを私の心に深く残して終戦を迎えましたが、幸いにも田舎に住んでいたことで、都会にくらべ爆弾などの投下被害は受けずに済みました。

終戦を迎えると、外地に出向いていた復員兵が帰還したり、アメリカ兵が街中を闊歩したりと、国内は混乱の続くなか、私は昭和21年4月に福岡県嘉穂郡幸袋町立、目尾(しゃかのお)小学校へ。今風にいえばピカピカの新1年生となり小学校の門を潜りました。

小学校1年生になったとはいえ、父親は小ヤマ(小さな炭坑)の炭坑夫、母親は同じ炭坑の洗炭場(坑内から掘り出された石炭を選別するところ)で働いていたので、子供のことをかまってやる時間がなく、それを幸いと家で勉強などした記憶などあまりなく、上級生に混じって近くの山でのターザンごっこ、また川に行っては鮒や鯰や雷魚などの魚捕り、夏には山間の大きな貯水池で水泳をしたりして過ごしました。

昭和20年9月23日の新聞報道によれば、当時の松山厚相が、相撲、野球、庭球など明朗体育の復興を奨励するとの談話とともに、野球や庭球のスポンジボールを数万ダース発注し、全国の運動団体、学校、職場などに配給するとの記事が見受けられます。

 戦後の混乱期、スポーツのなかでも特に野球はいち早く復活の兆しを見せ、終戦2ケ月後の10月28日には神宮外苑球場で六大学野球のOB戦が行なわれ、次いでプロ野球も昭和21年に再開、高校野球(当時は中等学校野球大会)も、7月に甲子園球場で5年ぶりに全国大会が開催されました。

都市から地方へ、そして私たちが住んでいた山間部の田舎にも、野球復活の波は押し寄せてきました。
手ごろで金もかからず楽しめる野球というスポーツが、受けたのかも知れません。

 三角ベースから始まった私の野球への出会いでしたが、新聞やラジオから流れるプロ野球放送などに刺激され、小学校5年生になると、三角ベースで鍛えた?実力?を試すべく、親に相談することもなく、学校の野球部に入部しました。

私がその後の人生で、野球と深く関わることとなる、第一歩を踏み出した瞬間です。

それまで私は学校から帰ると、炭坑広場の三角ベースへ駆けつけていたものを、今度は学校のグラウンドで、四つのベースがある本格的な野球と取り組むことになりました。

野球部へ入ると、当然のごとくボール拾いから始まり、グラウンドの右側の下が水田でしたので、ファールボールがよく飛込み、入部したての頃は水田専門のボール拾いでした。
ボールを拾って持って行くと、また水田へとUターン、この繰り返しで、これなら炭坑の広場で三角ベースをやっていた方が面白かったかな、と思うことが度々ありました。

私は当時(現在もですが)無口で純情無垢?の少年でしたので、先生に辞めるとも言えず、ボール拾いは「いや」の態度も出せずの状態で、渋々続けた時期もありましたが、いま思うと辞めないで良かったと思います。

そしてボール拾いを繰り返す内に、私が5年生の秋に6年生の最後の大会が終わり、野球部で最上級生になったとき大屋先生(監督)に呼ばれ、山本(私の旧姓です)今日からショートのポジションを練習するようにといわれました。
練習は毎日2時間少々で、ランニング・体操・キャッチボール・トスバッテング・フリーバッテング・バント練習・シートノック・ベースランニング・体操、などを繰り返し行なっていました。

ショートのポジションを与えられたのは、三角ベースのときに貧乏でグラブを持っていなかったので、素手でボールを落とさず確実に捕球するには、手の平の真ん中で、しかも両手で捕球するという基本を守り、キャッチボールなどしていたことや、足の方も2年生の頃から運動会のメーンである、地区対抗リレーやクラス対抗リレーの選手だった関係で、足の早さなどを考慮されたのだろうと思います。  
そして最初の練習試合から、打順は1番を任されました。

私たちが6年生になったときに、石津先生が転校して来られ、野球部は大屋先生と2人で指導されるようになりました。この石津先生の思い出として、当時の小学生には無理と思われるプレイを一つ教えていただいたことを忘れません。

そのプレイとは、例えば三〜遊間のゴロ、ショートが飛びついて捕ったが体勢が崩れ一塁またはその他の塁へ投げるには時間がかかるような場合、何がなんでも起き上がって投げるのではなく、近くにいる三塁手へトスして後のプレイを託す、そのような方法もあるのだと教えていただきました。
その後、中学・高校で野球を続けましたが、このプレイを念頭において練習したことはいうまでもありません。

こうして、小学校時代はショートで1番を通しました。
成績の方は1年先輩の時代は優勝したこともあったのですが、私たちの時代は残念ながら優勝した記憶(証拠となる写真もなし)はありません。

私も少しずつ逞しくなったのか、小学校5年生の頃には家の近くにある浜尾神社の相撲大会で、1回勝てば10円の賞金が貰えるというので、お金欲しさに10人ほどから勝って賞金稼ぎ?をしたこともあります。

また学校対抗のリレーや相撲に、学校の代表として選抜され出場したことが多くありましたので、多分勉強は出来なくてもスポーツの方では少しは才能があったのでしょう。

昭和27年3月、校庭に咲く桜の花に送られ、多くの思い出を残して、私は目尾小学校を卒業しました。

(平成14年9月26日・記)



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