◇◇ 平田 東審判員 ◇◇


■その(4)
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 昭和27年4月、幸袋中学校へ入学しました。
 幸袋町には小学校が2つあり、私たちが通っていた目尾小学校と、もう一つは幸袋小学校で、この2つの小学校が一つになって幸袋中学校となります。
 自宅からの通学時間は、小学校までは徒歩で20分程度でしたが、この幸袋中学校までは40分ほどかかり毎日が大変でした。

 中学校に入学すると、野球部と陸上部から入部の誘いがあり、どうしょうかと迷っている内に1ケ月、2ケ月と時が過ぎ、やがて半年が過ぎてしまいました。
 そろそろ結論をと思っている内に、すでに秋を迎え野球のシーズンはほぼ終わってしまい、結果的にどちらの部へも入部の機会を失ってしまいました。

 中学1年時は勉強の方にも少し身を入れましたが、一方で友達数人と学校帰りに農家の裏山で、柿や栗などの果物を黙っていただいたり(これひょっとして泥棒?)と、少々悪さもしました。
 ときには見つかって、追いかけられることもありましたが、捕まるのはいつの友達の方で、私は持ち前の俊足?で逃げ足早く、捕まるようなことはありませんでした。

 2年生になると意を決して野球部へ正式に入部しました。 
部員も20数人とさほど多くなかったことで、先輩に混じって同じメニューの練習をすることができましたが、3年生との実力の差は大きくレギュラーにはなれませんでした。

 2年生の秋から(3年生の大会が終わり)猛練習を重ね、小学校と同じショートで1番打者のレギュラーを獲得することができました。
 野球部の先生は、花田(数学)・帆足(英語)の両先生で、特に花田先生は教職員の中でも硬派として、また生徒にとっても怖い存在で、野球の方でも厳しく鍛えられました。

 野球部がオフになると、校内マラソンの2年の部(140名)で5位に入り、陸上部から声がかかり、嘉飯山地区(嘉穂・飯塚・山田)の駅伝大会に出場、4区8.3km区間を受け持ち、トップでタスキを受けたものの、3人に抜かれ5区へ4位で中継、後の走者もズルズルと後退し、最終的に8位となり県大会出場(7位まで出場)はなりませんでした。
 このときの私の責任は本当に大きく申し訳なく思いました。

 再び春が来て3年生となり、秋の最後の大会が終わるまでの3大会中、2つの大会に優勝しましたが、夏の県大会出場を賭けた試合では、遠賀中に1点差で敗れ夢は叶いませんでした。
 中学時代の思い出として、後にノンプロから巨人に入団した稲築中の高岡投手と対戦し、2本のヒットが打てたことは今でも忘れることができません。

 このときのメンバーは、投手大迫、捕手松尾、一塁上野、二塁国広、三塁橋本、遊撃平田(旧姓山本)、左翼菅谷、中堅大江、右翼白川(2年)でしたが、松尾、上野、菅谷はすでに他界し、大迫は嘉穂東高校を卒業後、小野田セメントへ就職したものの、大江とともに現在も所在不明で、当時の残る部員で消息を探しています。

 3年生として最後の大会が終わると、陸上部へ復帰し、昨年苦渋を舐めた嘉飯山地区の駅伝大会に向けての練習に入りました。
 短距離競争(100m、200m、400m)では、小・中学校をほぼ負け知らずで通しましたが、長距離の方は苦手の部類で、たまたま2年時の校内マラソンで上位に入っての抜擢でしたが、2年連続で出場することになりました。
 昨年の失敗を繰り返さないために、あくまで自分のペースを守って走ることを心がけ、3区稲築中前〜大隈警察署前間を受け持ち、11位でタスキを受けた気楽さから、思い通りの走りができ、1人しか抜けなかったものの、区間賞を獲得することができました。
 (大会:昭和29年12月5日、記録23分01秒)

 野球の方に話を戻しますが、中学校時代の花田先生の野球に対する厳しさや教えは、野球だけでなく、その後の私の人生にも大いに役立ちました。
 私は親に新しいグラブを買ってくれと言えず、小学校時代の古くて小さいものを使っていましたが、花田先生が見かねて自分の使用していたグラブを貸し与えていただきました。

 平成7年に花田先生(すでに教職を引退)宅を訪ね、グラブをお借りしたお礼、また当時の思い出話などを約40年ぶりに語り合うことができました。
 花田先生は根っからの野球好きで、幸袋中学校をはじめ、転校先の各学校でも野球を教えられ、定時制高校の甲子園といわれている神宮球場での全国大会に、嘉穂高校夜間部の監督として、昭和50年代に出場されています。


 教職を退かれたあとは、飯塚市体協の副会長を永く務められたとお聞きしています。
 帆足先生は今から10数年前に他界され、花田先生は平成7年の同期会には元気な姿を見せていただきましたが、平成11年の同期会のときは入院先の病院から無理な体で出席され、その約1ケ月後に訃報を聞くことになりました。

 私は中学時代に花田先生という素晴らしい指導者に恵まれ、50年にも及ぶ現在も野球というスポーツが続けられる原点は花田先生であり、私の尊敬する野球の師であり、人生の師でもあります。

 3年生のときの担任は青柳先生(現在体調不良と聞いています)でしたが、2学期に何を思ったのか、学級委員に任命していただきましたが、私にとっては正直いって大変な負担を感じていましたが、今では良き思い出です。

 夏休みを過ぎると進学組は受験勉強に入りますが、私の家庭は貧乏家族で、まして4人兄弟の長男ですから、高校進学など最初から考えていませんでした。
 幸袋中学校の進学する高校は、90%が県立嘉穂東高校で、野球部では私と上野(飯塚商業進学)を除き、多数がこの学校へ入学し、そのまま野球部へ入部しました。

 野球部では私一人、就職の道を歩くことになりました。

(平成14年10月11日・記)



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