◇◇ 平田 東審判員 ◇◇


■その(6)
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 悶々とする日々がしばらく続きました。
 無理とは知りつつ、もう一度あの仲間たちと野球がやりたい、との思いが募りました。

 昭和30年もあと1ケ月で終わろうとするある日、母親に「中学校時代に一緒に野球をやっていた友達が、嘉穂東高校で野球部に入り、その練習を会社の帰りに毎日見ていたら、俺も野球がやりたくなったバイ(ここだけは九州弁)」と、率直に胸の内を打ち明けました。 
 家庭の状況を考えれば絶対に無理で、親に相談したものの、ダメで元々の心境でした。

 母親は当時働いていませんでしたが、数日後、これから自分(母親)が働いて高校に行かせてやると云ってくれました。
 このときは、野球がやれる喜びで本当に嬉しかったです。

 しかし、後々考えてみると、勉強がしたいから高校へ行かせて欲しいと云うなら話も分かるのですが、野球がやりたいから高校へ行かせて欲しいと云うのは、頼んだ子もその気になった親も???で、一体何を考えていたのでしょうか。

 以後、働きながらの試験勉強が始まりました。
 中学校を卒業したころは、これから勉強しないで済むと喜んでいたものが、野球をやるために嫌いな勉強へのチャレンジが始まりました。 

 本屋さんで受験勉強用の教科書や問題集を何冊も購入し、懸命?に受験勉強に取り組みました。
 教えを受ける先生もいない1人での闘いでしたが、野球をするための勉強ですから、このときばかりは、あまり苦にはなりませんでした。
 約3ケ月の受験勉強期間を経て、中学時代の野球仲間がいる、嘉穂東高校を受験しました。

 試験当日、会場に嘉穂東高校野球部の監督をしている先生が尋ねてこられ、入学したら野球部へ入るかどうかの確認をされました。

 野球部の先生の入部確認もあり(私としては合格判断)、心中は中学時代の仲間と一緒に練習している姿をダブらせながら、とりあえず試験発表を待ちました。

 待望の結果発表の日です。
 掲示板に張り出された多くの合格番号・・・・・
 緊張する瞬間です。
 探しました・・・・懸命に・・・・私の受験番号を・・・・

 しかし、どこを何度探しても、私の受験番号は見つかりませんでした。
 不合格です。
 天性の頭の悪さと、俄仕込みの勉強では無理があったのでしょう。

 野球ができなくなる挫折感、高校へ行かせてやると云ってくれた親に、不合格をどう伝えるか、混乱する頭で悩みました。

 時が流れて、当時から50年近く過ぎたいま、このときの不合格を親にどう伝えたのか、今となっては思い出すここができませんが、私のことですから多分、勉強した以外のところから試験問題が出たなどと、言い訳に終始したと思います。
 85歳ながら、健在で北九州に住んでいる母親に、当時のことを一度聞いてみたいと思っています。

 受験に失敗した私は、近所の人や会社の人たちにも格好が悪くて、会社にも行く気になれず、すっかり働く意欲も失せてしまいました。

 試験発表から数日過ぎたある日、私は決心しました。そうだ、大阪へ行こう、大阪へ・・・
 漠然とした考えのなかで大阪行きを決め、出発まであと3日と切羽詰ったある日、同じ地域に住む2歳年上の福重さんが、受験失敗と大阪行きを心配して訪ねてこられ、私立の飯塚商業が2次募集をしているのではないか、と知らせてくれました。

 私は次の日、電話施設のある遠い場所まで行き、使ったこともない電話で学校の電話番号を聞きだし、飯塚商業へ電話をしました。
 学校の応えは、2次募集はしているが、明日が締め切りだとのことでした。
 さぁ困った。野球をするためには明日までの期限をどうするか。

 このようなとき意外と機転が利くのが、私の特性です。
 そうだ、中学時代の花田先生を訪ねよう。
 私なりに、花田先生なら何とか力になって貰えるかも知れない、との思いでその日の内に学校に行き、先生に相談しました。

(平成14年10月26日記)



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