◇◇ 平田 東審判員 ◇◇


■その(7)
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 花田先生には、仲間のいる嘉穂東高校を受験したが不合格だったこと、大阪で仕事を探すため2〜3日あとには旅立つ予定だったが、飯塚商業の2次募集を同じ地域の先輩が報せてくれたので、学校へ問い合わせをすると、明日が締切りであること、どうしても野球がやりたいので飯塚商業を受験したいことなど、事細かに話をしました。

 先生は、突然舞い込んだ難題に戸惑いながらも、教え子の熱意に根負けしたのか、わかった、少し待ってくれといわれ、職員室から何処かへ電話をされていましたが、再び私の前に来られると、明日飯塚商業の竹本先生を訪ねるようにいわれました。

 そして暫くの後、1通の手紙を渡されましたが、花田先生から竹本先生に宛てた、私の紹介状でした。

 花田先生は私を、勉強はダメだが野球のセンスはあると思われていたのか、あまり強くない県立の高校で野球をするよりも、私立で野球のレベルも高く、伝統ある飯塚商業でもまれた方がよいと思うし、幸袋中学から飯塚商業の野球部へ入った者は過去に一人もいないが、入学したら幸袋中学の代表として頑張ってくれ、と励ましを受けて花田先生のもとを辞しました。

 花田先生には、グラブ借用の件、今回の飯塚商業への紹介状の件、と二つの恩を受けることになりました。

 私は嘉穂東や嘉穂高校などの学校は中学校時代から知っていましたが、嘉穂東高校の受験に失敗し、同じ地域の先輩に2次募集の情報を得るまでは、飯塚商業という学校の存在はほとんど知りませんでした。

 次の日、飯塚商業の竹本先生を訪ね、花田先生からの親書を渡しました。

 花田先生からすでに話がついていたのか、受験に関する諸手続きは竹本先生の指示によりすべて終わりました。

 飯塚商業は私立だから月謝は高いだろうな、との思いもありましたが、とりあえず夢は繋がりました。
 あとは親を説得することと、更に難関は苦手の試験に合格することですが、一度受験に失敗しているので、自信はまったくありませんでした。

 その夜、親に飯塚商業の受験と、その手続きが終わったことを話しました。
 そして県立高校より私立高校の方が、月謝が相当に高いことも話しました。
 貧乏家庭にとって、親も月謝は高いより少しでも安い方がいいに決まっていますが、私の説得と熱意に押し切られる形で了解をとり付けました。

 この受験に失敗すれば、野球を諦め、再び大阪行き決行という瀬戸際の気持で、受験まで僅かの日数でしたが、必死の思いで受験勉強にトライしました。

 そして受験の日が来ました。

 先日竹本先生を訪ねたとき、学校の校門は威厳があり中学校とは違うな、との思いがありましたが、改めて受験会場である教室に入って驚きました。

 床は汚れてギシギシと軋み、教室の板壁はあちこちで破れて大きな穴が空き、更に廊下を見渡すと、こちらも板壁の破れが目立ち、これは自然に壊れたのではなく、生徒が蹴破ったのでは、と思われる形跡であり、学校は相当荒れていて入学しても勉学?に励む気持には到底なれないだろう、とんでもない学校を受験したな、との不安が急速に拡がりました。

 試験問題はどのような問題が出たのか、どのくらいの点数だったのかを含めて、今では思い出すことはできませんが、数日後の結果発表は見事?に合格でした。

 当初の目標であった、嘉穂東高校で中学時代の仲間との野球継続の夢は、残念ながら叶いませんでしたが、一年間のブランクはあるものの野球を続ける態勢は整いました。

 入学後にわかったことですが、受験合格は幸袋中学の花田先生から飯塚商業の竹本先生への紹介状の時点で、推薦入学の形で決まっていたようです。
 また、竹本という先生は飯塚商業では体育の先生で、花田先生との関係はスポーツを通しての交流があり、学校では実力者で同職の先生や生徒からも一目置かれた存在でした。

 昭和31年4月、桜の季節もほぼ終わりに近い晴天日、通常の入学より一年遅れで飯塚商業の校門を期待と不安を抱いて潜りました。

 飯塚商業は昭和3年の創立で、私が入学した当時の理事長は横田氏、校長は金丸興志夫氏、野球部OBには小鶴誠(名古屋〜広島:プロ在籍15年、MVP・首位打者・本塁打・打点王、各1回)、野口正明(名古屋〜西鉄:プロ在籍17年、最多勝投手1回)、三村勲(中日〜広島:プロ在籍10年)などがいます。

 昭和29年までは男子校でしたが、私の入学する一年前の昭和30年から男女共学校となりました。
 私のクラスの担任は珠算を教えられていた、小西という温厚な男の先生でした。

 野球部は新一年生が50人ほど入部し、2年と3年生が各10人で総勢70人ほどの部員でスタートしました。
 野球部の部長は慶応出の今川先生、監督兼コーチにはノンプロの日鉄二瀬から、村岡さんが来られ指導されていました。(日鉄二瀬では投手)

 入学と同時にその日から、夢にまでみた高校での硬式野球がスタートしました。

(2002年11月29:記)



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