飯塚商業野球部のグラゥンドは、学校の校舎に隣接し、遠賀川沿いの土手を背にバックネットがあり、この本塁の位置からレフトの後方には柵があり、柵の外は畑でしたが、この柵までの距離はかなりありました。
一方ライト側は非常に狭くて、右翼手の定位置のすぐ後ろは校舎で、グラゥンドに面した窓は危険防止と破損防止のため、太い金網が取り付けてありました。
飯塚商業は私立高ですから、県立高と違ってどの地域からでも入学が可能で、嘉飯山(嘉穂郡・飯塚市・山田市)地区の他に、田川市周辺の中学からも多数入学していて、1年生のクラスは7組ありましたが、1クラスあたり65人前後が教室に詰め込まれていました。
なぜ1クラスに65人も詰め込まれていたかですが、3年の卒業時期を迎えるころには授業について行けなかったり、月謝が払えなくなったり、或いは事件を起こして退学になったりして、最終的に50人少々になりますので、その分を見越して最初に大量入学させるのです。
教室の中はすし詰め状態で、休み時間になっての教室の出入りも大変でした。
野球部へ新1年生の部員が、私を含めて50人ほど入部しましたが、広範囲の中学校で活躍したエースやスラッガーが入部してきますので、ポジション争いは熾烈です。
私たちが1年生として入部したときは、2年生と3年生の部員はともに10人程度でしたが、最初は多数入部するものの、1年、2年と経つうちに、自分の実力を悟って辞めていったものもいたでしょうが、何といっても飯塚商業の場合は、上級生によるしごきが特に酷かったので、大きな夢をもって野球部に入部したものの、このしごきに耐えられずグラゥンドを去ったものは、多数いたと思います。
このしごきの酷さについては後述します。(次号に)
入学初日から私としては高校野球初の練習がスタートしましたが、新1年生部員は10人ほどの単位で、横列に並び土手の上り口や土手の上、或いは三塁側の草むら近くに立って、先輩が打ったファウルボールを、その場から走っていって拾うのです。
立つ姿勢もただ突っ立っているのではなく、中腰の姿勢で先輩たちの打撃練習が終わるまでの長時間、ナイスバッティング、ファイトなどと大きな声を出し続けるのです。
1年の新入部員のころは、監督兼コーチにスパルタ野球で有名な、日鉄二瀬の濃人監督(36〜40年:金鯱、41〜42年:大洋、43年:西鉄、48年:金星、49〜59年:日鉄二瀬・監督、江藤慎一、古葉竹識を育て、60年:中日・コーチ、61〜62年:中日・監督、64年:東京・コーチ、67〜68年:東京・監督、69〜71年:ロッテ・監督、70年にパ・リーグ優勝)が推薦した村岡さんが、ノンプロ仕込みの練習法で熱血指導されていましたが、練習は授業が終わった3時半から始まり、夜の9時ころまで延々と続きました。
九州地方は関東地方よりも1時間ほど日没が遅い関係で、7時ころまで練習ができ、夏至を迎える時期は、8時近くまで実戦練習ができました。
夏の地方予選が近づいてくると、練習は夜の9時ころまで続きます。
グラゥンドが暗くなり、打撃練習や守備練習ができなくなると、懐中電灯を各塁のベース付近に灯しての、ベースランニングが続きます。
ベースランニングが終わると、今度は全員が輪になって発声練習の始まりです。私は声が小さいと言われ、何度も何度もやり直しを命じられました。
このころになると、腹はペコペコの上での発声練習ですから、本当に辛い思いをしました。
1年生部員はそれで終わりではありません。
グラゥンド整備をしたあと、用具の片付け、部室へ帰ると先輩たちがまだ着替え中であれば、着替え終わるのを待ち、当然のことですが何もかもが最後です。
やっと校門を出て帰路につきますが、学校から新飯塚駅までは、約5分と近かったので助かりましたが、夜の9時半過ぎともなれば、田舎のことでもあり、なかなか電車が来ないので、この待ち時間を利用して、1年生部員の日課の一つであるボールの補修に取り掛かります。
太目の糸と針を使って5〜6個のボールを繕っていき、待ち時間の中で終わらなかった場合は、翌日の授業の休み時間を利用して、その日の練習に間に合うように仕上げます。
私の通学区間は新飯塚駅から鯰田駅までの一駅でしたが、鯰田駅から自宅までは、徒歩で20分ほどかかり、真っ暗な田舎の道を急ぎ足で家に帰りつくのは10時過ぎです。
家に辿り着くと、まず腹が減っているのでどんぶりめしを3杯ほどかっ込みます。
そして炭坑の薄汚れた共同風呂に入って(家から1分のところにあり)汗を流し、家に戻ると、今度はバットの素振りを200回ほどして、11時ころに床に就きますが1〜2分でバタンキューの状態で、朝の7時までは完全熟睡です。
このような生活が、入学した4月から夏の地方予選が始まる7月初旬まで続きました。
夏の大会までには、小さな大会や練習試合などもあり、私たち1年生部員は先輩のバックを持ったり、用具係を兼ねたりしながら遠征試合などに帯同しました。
6月には胸を借りる形で、社会人の三井山野炭坑野球部と練習試合を行ないましたが、試合の途中から三塁手として出場し、守りの方も一応無難にこなし、私にとって高校野球初のデビューを果たしました。
しかし、夏の大会前の試合出場は後にも先にもこの1試合のみでした。
夏の地方予選(第38回大会)はスタンドからの応援で、1回戦は常盤高校を7−6、2回戦は八幡中央高校を4−1、3回戦(北部大会準々決勝戦)は小倉高校と対戦し、延長10回、4−5で敗れました。
この年、小倉高校は甲子園出場しました(初戦敗退)
オーダーは、1番寺敷(三塁・3年)、2番内海(遊撃・2年)、3番山本(捕手・2年)4番甲斐(一塁・2年)、5番伊藤(二塁・3年)、6番山根(投手・3年)、7番入江(右翼・2年)、8番金川(中堅・3年)、9番井上(左翼・2年)でした。
山根先輩(投手)は西鉄ライオンズに入団しましたが、結局1軍に上がることなく、数年後にプロ球界を去りました。
夏の地方予選が終わると(大会に敗退すると)、1年生と2年生だけの練習がすぐに始まりましたが、この時点で1年生部員10人ほどがすでに脱落し、新チームは約50人でのスタートとなりました。
監督も村岡さんに代わって、満鉄野球部で活躍された飯塚商業では大先輩の江藤悦次さん(昭和12年卒)が、学校職員として着任され、新チームから指揮を執られるようになりました。
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