◇◇ 平田 東審判員 ◇◇


■その(9)
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 前監督の村岡さんは、日鉄二瀬の濃人監督の徹底したスパルタ野球を、受継いだような指導法でしたが、新監督の江藤さんは、逆に徹底した合理的練習法を取り入れられ、まず驚いたのは練習時間の短縮でした。
 
 練習の開始時間はどちらも午後3時半頃からと代わりませんが、終わる時間が村岡さんは夜の9時頃まででしたが、江藤監督の練習法は日没になると終わりでした。
 春と秋では当然日の暮れも違いますが、どの季節においても日没になるまでの時間を有効に使って、暗くなれば練習を切り上げる、そのような練習方法で懐中電灯を灯して練習をするようなことは無くなりました。

 夏の地方大会の予選前までは、練習は雨が降らない限り、夜の9時頃までがあたり前となっていましたが、新チームになり監督が代わってからは、練習は中身が濃くなった分、きつくなったのですが、早く帰れると思うと練習にも身が入りました。

 但し、早く帰れた分勉強の方に少しは身を入れたかというと、残念ながら前と殆んど同じ状態でしたが、さすがに学期末試験などのときは、教科書には軽く目を通すことはしました。

 3年生が去って、約50人の1・2年生部員でスタートした新チームは、夏の地方予選に敗れた2日後から練習が始まりました。

 7月から8月の夏休み期間中の練習は、午前9時頃から昼食を挟んで午後3時頃までで、真っ黒になって100本ノックを経験したのもこのときが初めてです。
 
 3年生が去り、2年生が野球部の最上級生になったことで、我が天下とばかりに次第に言葉や態度が横柄になり、しごきの方も少しづつエスカレートしてゆきました。

 練習の合間を縫って、他校との練習試合が組まれ、試合前のシートノックのときにショートを守っていた千北が手に打球を当てて負傷し、急遽私がその試合でショートを守ることになり、攻守を無難にこなしたことで、その日以降私がショートのレギュラーポジションを獲得することになりました。

 下級生が上級生のポジションを奪う、競争原理からいけば恨まれる筋合いはないのですが、私が1番打者でショートを守り、2番で三塁を守る高村の2人が1年生でしたから、上級生のポジションを奪った2人はしごきの格好の対象となり、リンチに近い暴力の犠牲になったのだと思います。

 練習が終わって私が二塁、高村が三塁のキャンバスバック(ベース)の上に長いこと正座をさせられ、挙句の果てに拳で殴られたり、スパイクで蹴られたりの暴力を受けました。

 平手で殴るならまだしも、拳骨で殴りますから、叩かれる前に歯を食いしばっておかないと、口の中は血だらけです。
 さらに足蹴にされるのですが、多分叩いた手が痛くて足で蹴ったのでしょう。
 しかし、足蹴にされたときは、私の我慢もさすがに限界に近かったです。
 特に私は1年遅れて入学した関係で、上級生である2年生とは歳は同じであり、中学時代から少しは喧嘩もできましたので、なんで同じ歳の野郎に殴られなければならないのかと、殴られるたびに屈辱感を覚え本当に悔しい思いをしました。

 しかし、ここで短気をおこして2年生に反発し、手を出した瞬間に野球部も学校も辞めてゆくことに繋がります。
 親に無理をいって月謝の高い私立校に通わせてもらっていることや、親の期待、自分自身の夢、また中学時代の花田先生からは推薦状を書いていただき、幸袋中学校の代表のつもりで頑張れとの励ましの言葉にも背くことにもなり、沸き上がる怒りに歯を食いしばり、悔し涙を流して耐えました。

 好きな野球ができると夢と希望に胸を膨らませ、練習にも熱意をもって励んできたつもりでしたが、野球の技術を磨くのに、なんで暴力が必要なのか本当に理解ができませんでした。
 しかし、我慢しょうと心に決めたあとは、こいつらに負けるかの一念と、レギュラーの座は絶対に渡すものかの信念で練習に明け暮れました。

 いまも体内に宿る負けじ魂と不屈の精神は、この頃に植えつけられたのだと思います。

 このような暴力によって夏の大会が終わった時点で、40人いた1年生部員は、夏休みが終わるまでの僅かの期間に20人ほどが野球部を去り、部員は1・2年生合わせて30人程度になってしまいました。
 しごきがいかに酷かったかが、このことからも分かります

 この暴力を部長や監督は知っていたと思いますが、助けを求めたい先生方は見て見ぬふりの様子でしたので、あとは部に残るか辞めるか二つに一つの選択の中で、辞める方を選んだ多くの同級生は、無念の思いで野球部を去っていったことだと思います。
 忘れていましたが、私たちと同じ1年生の部員の中に、日鉄二瀬の濃人監督の子息(長男)も入部していましたが、この時点で脱落し野球部からも学校からも去っていきました。

 この程度のしごきに耐えられなければ技術は上がらないとか、部員の資格はないとか、しごきは伝統だとか、ポジションを下級生に奪われた腹いせに、とかの理由で、抵抗もしない下級生に暴力を振るうなどの行為は、愚の骨頂で悪しき習慣だと思いました。

 無抵抗の下級生を殴り続ける、2年生にとってこれ以上の快感はなかったと想像できます。
 当時は入った学校がバカ学校だったと、諦めるより仕方がありませんでした。
 
 この時代に大阪の浪華商業(現・浪商高校)が暴力事件をおこして、出場停止処分を受けた記憶があり、最近ではPL学園高が同じ暴力事件で新聞を賑わせました。

 私立・県立を問わず。しごきはどの学校でも行なわれていたと思いますが、表沙汰になるようなことは、滅多にありませんでした。
 
 新チームのメンバーは、夏の大会に出場した2年生のレギュラーが6人残り、それに私たち1年生の3遊間コンビがレギュラー入りし、県北地区(福岡県は春・夏・秋ともに、県南と県北の2地区に分かれて予選を行なう)では、実力校として一応評価はされていました。

 厳しい練習の中にも、春の選抜大会を目指す秋季大会も終わり、やがて冬の季節が到来し、グラウンドを離れてのトレーニングが始まりました。

 来春にグラウンドでの練習ができるまでの約3ケ月間、体力づくりのトレーニングに明け暮れる毎日となり、田舎の道路を全員2列縦隊になって長い距離を走り、定番となっている途中の神社で、頂上までの階段を十数回繰り返しますが、さすがにヘトヘトになりました。

 グラウンドでのベースランニングや、道路を走ることは中学時代に陸上部で鍛えられていますので、苦痛にはなりませんでしたが、階段の上り下りは他部員と同じように参りました。

 2月頃からロードワークの他に、学校に帰り着くと軽いキャッチボールがメニューに加わり、春近しを感じさせます。

 やがて長かった冬のトレーニングも終わり、グラウンドでの練習に切り替りました。
 そして3月の卒業式、4月の入学式を迎えました。

 私も2年生になりました。
  1年が本当に長く感じられました。
  この1年間は自分自身の心との闘いでもあったと思います。
  よく辛抱し耐えたと思います。

  野球部には、新しい部員が40人ほど入部してきました。
  夢と希望をもって・・・・・・・
  この新部員の中に昨年中途で学校まで辞めていった、濃人も再入学して入ってきました。

 4月を迎えると夏の地方予選までは、残すところ3ケ月しかありません。
 毎日の練習や遠征試合などは、すべて夏の大会を想定しての実戦的なものとなり、日に日に厳しさを増してゆきました。

 そして、練習の厳しさに合わせるように、悪魔のようなしごきも、日に日にエスカレートしてゆきました。
 冬の期間は体力づくり中心の練習でしたので、しごきをする理由がなく納まっていたのですが、グラウンドでの練習が始まると、殴らなければ損のような感じで、いろんな理由をつけて暴力を振るってきました。

 特に雨が降って室外練習ができないときは、必ずといっていいほど教室に2年生だけ集合をかけられ、気持いいほど殴られました。

 そして6月頃のある日、狭い部室に3年生全員が居室する中で、2年生が2〜3人ずつ入室させられ、全員が拳で殴ったあと、さらに厚底の革のスリッパで、顔の横面を殴打されたのですが、2年生全員が同じような殴られ方をしたようで、部室から出ると数人が耳の痛さと訴え、その日は遅かったので、次の日全員が病院で診察してもらった結果、4人ほどの鼓膜が破れているとの診断でした。

 その4人の中に私も入っていましたが、親にも知らせざるを得なくなり、部員の父兄も騒ぎ出した結果、部長と監督も事の重大さに気づき、その日から練習は数日間ストップしました。

 そして、部長の2年生部員宅への事情説明と謝罪行脚が始まりましたが、広範囲に散らばっている部員宅訪問は、当時は先生方でも自家用車など持っていない時代で、交通も不便な中、さぞ大変であったと同情もしました。

 数日後、練習はとりあえず再開されましたが、3年生は反省するどころか、不貞腐れた態度で逆に親になぜ知らせたなどと、自分たちがおこした重大な事件に悪びれもせず、バカなことをいっている連中には、正直呆れ果てました。
  
この暴力事件は結局表沙汰になることなく収まったのですが、しかし2年生と3年生の間には、気まずい空気が流れるようになりました

これでは団体競技に一番大切なチームワークなど、取れる訳がありません。

 そんなある日、行橋市で京都高校(みやこ)との練習試合が組まれ、卒業後、東映フライヤーズに入り、速球派として活躍した高野投手と対戦し、試合には負けましたが飯塚商業のヒット3本の内、私が3塁後方へ打った歩ポテンヒット1本が含まれていましたが、いまではよい思い出です。

 6月が過ぎ7月を迎え、夏の大会の地方予選が目前に迫ってきましたが、この年の春からの戦績は11勝6敗1分で、あまり芳しい成績ではなかったと思います。

 この時点で私たち2年生部員は、とうとう8人に減っていました。

 第38回夏の高校野球選手権大会地方予選が始まりました。
 飯塚商業はシード校となり、2回戦からの出場で八幡中央高校を7−1、3回戦の嘉穂高校を7回コールドの7−0で下しました。
 
 いよいよ県大会出場を賭けての、県北代表決定戦を迎えました。
 戦前の予想は新聞報道によれば、飯塚商業優勢との声の中で試合はスタートしました。得点経過は下記の通りですが、延長20回、試合時間は4時間30分を越え、午後1時に始まった試合も、終了は夕暮れどきを迎えていました。

飯塚商業 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 1 1
筑豊高校 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 2 2

 20回表の攻撃は、無死で1番の私から始まりセンター前へヒット、2番高村の送りバントが一塁線上を緩く転がり、投手と一塁手はファールになると判断したのか、転じるボールを見送っている僅かの隙をついて私は二塁ベースを蹴って一気に三塁を狙いました。
 この走塁を見た投手か一塁手か、どちらかが三塁へ送球したのですが、慌てていたのかこの送球がショートバウンドとなり、三塁手が僅かに後ろへ逸らしたのを見た私は、さらに本塁ベースを目指しました。
 私の足と三塁から捕手への返球が間一髪のプレーとなり、球審の判定が横に手が広がったことを確認した私は、両のこぶしを上空に突き上げ歓喜のガッツポーズで一塁側の自軍ベンチに向かいました。
 試合は裏の攻撃を残しているものの、私はこのとき勝ったと思っていました。

 この間に高村は三塁まで進んでいましたが、3番主将の内海が投飛のスクイズ失敗で、ダブルプレーとなり悔やまれる1点止まりに終わったことで、流れは筑豊高校に傾き、その裏投手の前田が打ち込まれ、見事な逆転負けを喫してしまいました。

 3年生は長い間、涙を流していましたが、私たちにはもう1年ありますので、負けた悔しさはありましたが、涙の方は出てきませんでした。
 私はこの時点で、数限りなく暴力を振るっていただいた、偉大でご立派な3年生に心から感謝しました。
 そして、永久にさようなら・・・・・・・と。



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