◇◇ 平田 東審判員 ◇◇
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■その(11)
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3年生にとって最後の大会まで残すところ3ケ月となり、練習にも一段と気合が入ってきました。
最終回に長短打を集中され、見事な逆転サヨナラ負けを喫してしまいました。 2年続けて最終回に逆転サヨナラ負けを経験し、野球の怖さを知りました。 私の高校時代最後の試合のオーダーです。(投手は3人の継投) 1番・山本(遊・3年、私の旧姓)、2番江上(右・2年)、3番・高村(三・3年、主将)、4番・松尾(二・2年)、5番・池田(一・3年)、6番・白土(中・2年)、7番・住吉(捕・3年)、8番・佐藤(投・2年)、宮(3年)、畠中(2年)、9番・山崎(左・2年) 結果的に私が在籍した1年からの3年間、すべて福岡県大会1次予選の代表決定戦で敗れ去ることになりました。 私の高校野球生活はこの敗戦で終わりました。 2年生の夏の大会で負けたときには出なかった涙が止まりませんでした。 負けた悔しさ、練習に明け暮れた入学以来2年3ケ月の思い出、そして何よりもこれで高校野球は終わったのだとの思いなどが交錯して頭の中を駆け巡りました。 昨年の夏に3年生が流した涙の意味がこのときになって分かりました。 試合後に分かったのですが、スタンドには飯塚商業への入学のアドバイスをいただいた、福重さんが応援に来られていたのですが、残念ながら期待に応えることはできませんでした。 自己評価ですが、高校3年間を振り返ってみますと、比較的本番に強いタイプで、試合では1番打者として、ヒット、四球、相手エラーなどで出塁し、足を生かしての盗塁、そして上位打者のヒットで生還というケースが多かったと思います。 打撃は右狙いの打法が得意で、セカンドの頭を越えた打球は、右中間を抜くことがしばしばありました。 また足を生かしてのバント安打の成功率も高く、上級生になってからの1年間の打率は4割5厘でした。 守備の方では、2年生のときにショートを守り1試合で4個の失策をしたこともありました。 すべてがよい思い出、いや苦い思いでも多くありました。 高校在籍3年間の夏季大会の成績をまとめてみました。 昭和31年(第38回大会:1年生時) (1回戦)飯塚商業 7−6 常磐高校 (2回戦)飯塚商業 4−1 八幡中央高校 (3回戦)小倉高校 5−4 飯塚商業 県大会出場決定戦(延長10回) 昭和32年(第39回大会:2年生時) (1回戦)シード・不戦勝 (2回戦)飯塚商業 7−1 八幡中央高校 (3回戦)飯塚商業 7−0 嘉穂高校 (4回戦)筑豊高校 2−1 飯塚商業 県大会出場決定戦 昭和33年(第40回大会:3年生時) (1回戦)不戦勝 (2回戦)飯塚商業 8−0 小倉西高校 (7回コールド) (3回戦)飯塚商業 5−0 筑豊高校 1年のときはスタンドからの応援で、レギュラーとして出場したのは2年生になってからです。 2年生のときの場合は、もう少し勝ち進めたのではないかと思いますが、3年生のときは、レギュラーの半数が2年生であったことを考慮すれば、よくがんばった方だと思います。 夏の大会が終わると、野球漬けの毎日からの開放感と夏休みとも重なり、糸が切れた凧のように飯塚市内の商店街に出かけては、当時は日活全盛の時代で石原裕次郎の「太陽の季節」や「狂った果実」、また小林旭の渡り鳥シリーズなどの映画を欠かさず観ました。 夏休みの後半になると就職活動が始まり、日鉄北松・日炭高松・三菱化成などのノンプロのチームを幾つかテストを受けましたが、九州の中小炭鉱のほとんどが閉山に追い込まれている状態で、大手の炭坑でも野球部の存続は年毎に厳しくなっていたので、この方面での就職は無理な状況でした。 そんな折りに大阪のPL教団(当時ノンプロあり・ジャイアンツの桑田や清原の出身校のPL学園はこの教団内にあります)への試験の話が舞い込み、書類選考のあと、夏休みも終わりに近い時期に受験することになりました。 (2003年1月29日・記) |