◇◇ 平田 東審判員 ◇◇


■その(13)
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 中学卒業後就職、野球をするために1年間のブランクのあと県立高校を受験するも失敗、受験先を飯塚商業に変えてトライし合格、待望の野球部へ入部、1年秋にレギュラー獲得、凄まじいシゴキの嵐と、夏の大会での延長20回の戦い、3年夏の大会でのランニング・ホームラン、高校野球最後となる試合で9回裏大逆転のサヨナラ負けを喫し、2年連続最終回の逆転サヨナラの敗北、私の高校3年間、最後の試合は悔いを残して終わりましたが、それでも精一杯練習に励み、心おきなく青春をグラウンドにぶつけた3年間は充実したものでした。

 ありがとう飯塚商業、ありがとう汗と涙にまみれたグラウンド、そして極貧のなかから高校に行かせてくれた親、すべてに感謝の気持で一杯でした。

 野球部は私が卒業した10年後の昭和43年に、甲子園初出場を果たし、地元はもとより多くの先輩が待ち望んでいた夢を叶えてくれました。

 飯塚商業は昭和3年に創立され、卒業生は22000名を数えるといわれていますが、昭和58年に諸事情によって廃校となり、55年の永い歴史にピリオドをうちました。
 
 飯塚商業からのプロ野球入団者は、1980年に殿堂入りをされた小鶴誠さんをはじめ、野口正明さん、三村勲さん、その他に森田・貞池・吉富・柴田・井上・藤野・山根・山本・住吉・青木・舞野・川村・執行・藤池などの先輩や後輩がプロの球団に籍をおきました。

 上記の住吉重信君は野球部でのポジションは捕手で、私とクラスも同じでしたが、長崎大洋クラブから三井鉱山を経て、昭和62年に阪急ブレーブスに入り9年間プレーしました。

 私も本来ならP L 教団への就職で直ちに大阪に発たなければならなかったのですが、肩痛や肘痛によって就職後の野球活動に対して将来に不安を感じ、自らの意思で就職を断念しました。
 P L教団にも学校にも迷惑がかかったことだと思いますが、私の周りに親身になって相談できる人たちがいたら、また違った選択の方法が見出せたかも知れません。
 3年間高い月謝を出してくれた親にも、安心させてやることができませんでした。
 
 桜の季節を間近に控えた昭和34年3月5日、私は数々の想い出を胸に刻んで、3年間お世話になった学校の門をあとにしました。

 明治時代から石炭とともに栄えた筑豊炭田も、エネルギー革命によって、石炭から石油への政策の転換は、炭坑で働く者の仕事を奪い失業者の増大、若者はこの地に留まるか都会に出るかの、二者択一を選択せざるを得ない厳しい現実に直面しましたが、私はこの地にいても将来に希望は持てないと判断し、生まれ育った故郷との別れは大変辛かったのですが、後ろ髪を引かれる思いで大阪を目指して夜行列車に乗り込みました。

 今度こそ大阪に行くと決断をして、すでに現地で就職している友人の伝手で、大阪市西淀川区で現在も操業している、大阪鍛鋼所(株)に就職しました。

 仕事の方は重労働でしたが、会社には野球部があり、昼休みや就業後には工場敷地内の広場を利用して、キャッチボールや軽いノックの練習をしていました。
 私はこの会社で、硬式ボールから軟式のボールに変えて草野球のスタートを切ることになりました。
 
 私が卒業した昭和34年は、皇太子と美智子妃の結婚式を4月に控え、慶祝ムード一色の春でした。

 就職した会社での大きな想い出は、昭和34年か35年かは忘れましたが、会社の社長令嬢と、昭和29年にテスト生から南海ホークスに入団し、日本を代表する選手となる少し前の、野村克也さんとが結婚されて、別途披露宴を社員にも設けていただいたなかで、社員からの質問に対して野村さんは、ボソボソと聞き取りにくい声で答えられていたのが印象に残っています。
 私も中学時代から福岡に居ながら地元の西鉄ライオンズを応援せず、南海ホークスのファでしたので、会社社長のお嬢さんとの結婚でさらに南海ホークスが好きになりました。
 
  私が南海ファンとなったきっかけは、足を使っての機動力野球に魅力を感じていたからです。私の野球も足を生かして四球、バントヒット、内野安打などで出塁し、盗塁などを絡めて相手チームを掻きまわす、そのような野球が好きでしたので、同じような試合運びをする南海ホークスのファンとなったのです。
  パ・リーグに所属していた南海ホークスは、当時西鉄ライオンズと毎年のように、激しいナントレースを争っていました。
 監督は鶴岡さん(旧姓・山本)で、杉浦・野村・飯田・岡本・陰山・木塚・広瀬など粒ぞろいの選手が揃っていました。
 
一方ライバルの西鉄ライオンズの監督は三原さんで、稲尾・高倉・今久留主・中西・豊田・関口などの荒武者が揃っていて、打線は凄い破壊力をもち、4,5点のリードにも安心ができませんでした。

 当時の野球は、投手は先発完投が当たり前で、例えばパ・リーグ:昭和32年・稲尾35勝、33年・稲尾33勝、34年・杉浦38勝、セ・リーグ:昭和32年・金田28勝、33年・金田31勝、34年・藤田・27勝などです。(昭和36年には稲尾投手の42勝もあります)
 打者の方も中西や豊田・張本また長島や王の新人時代でしたが、力と力の対決、また試合のテンポも速く、現在のように3時間以上は当たり前の試合などありませんでした。昔の豪快な野球が陰を潜め、現在のプロ野球はあまり面白いとは思いません。

  高校時代の話が長くなりましたが、私の野球の原点はやはり高校時代の野球だと思っていますので、余分と思われるものまで書いてしまいました。
 
  次回からは草野球のプレーヤー時代の思い出話、現在も継続中の審判活動などについてものべてゆきたいと思います。

(平成15年2月27日・記)



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