◇◇ 平田 東審判員 ◇◇


■その(14)
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 憧れの大阪で就職先は(株)大阪鍛鋼所でしたが、私の草野球のスタートでもありました。
 会社の敷地内で昼休みや就業後に、キャッチボールや投球練習、シートノックなどもやっていましたが、試合はどこのグラウンドしたのかどうしても思い出すことができません。
 
 関西は野球が盛んなところで、南海ホークスの本拠地である難波球場にはよく足を運びました。また日本シリーズで南海は巨人によく負けていましたので、自然とアンチ巨人となり、甲子園球場の阪神対巨人戦に出かけては、阪神タイガースを応援したものです。

 昭和40年10月に、大阪府高槻市の三菱系の自動車会社へ転職し、昭和42年にこの会社が、東京都品川区に東京工場を開設したのに伴い、私も転勤することになりました。住まいは工場に内接した3階と4階が独身寮で、大阪から転勤した独身者30名近くが寮に入りました。食事は3食とも会社の食堂でとることができ、賄いは会社の課長の奥さんを中心に3人ほどで、おかずによくコロッケが出ていたため、最後は嫌になり賄いの人の目を盗んでは素早くポケットに隠し、食堂の外のゴミ箱へ捨てていました。

 東京工場には大阪から転勤したものがほとんどで、関西弁の「あほんだら」「ぼけ」「かす」「たこ」などのきつい言葉が朝から夜寝るまで飛び交っていました。
 
 大阪工場にも野球部はありましたが、東京工場にも高校時代に野球部に在籍した者も数人いましたので、野球部を有志で創りユニフォーム一式は会社の方で購入してもらいました。
 日曜日など独身者は暇を持て余していましたので、野球は最高の時間つぶしで夢中になりました。
 しばらく工場内で練習などしたあと、練習ばかりでは面白くないので、品川区役所へ野球の大会に出たいのですがと、問合せをしたところ区の連盟を紹介され、一番下のランクから大会に参加することができました。
 
 試合の方は大会に出ても2回戦か3回戦までしか勝ち進むことはできませんでした。
 好き勝手な野球でサインなどなしでしたので勝てるわけがありませんでした。区の大会は、今でも審判で訪れることもある天王州球場などでした。

 私もそろそろ結婚を考える歳だなと思っていたところ、会社にパートで働いていた方から紹介があり、昭和43年2月に縁あって都内出身の女性と結婚することになりました。私が29歳のときで、式場は品川文化会館でした。

 新婚旅行は四国で2泊、京都で1泊しましたが、憶えているのは高知の桂浜と京都の柊家旅館くらいで、あとはどこをどう廻ったかも忘れてしまいました。
 
 結婚を機に寮を出て、会社から歩いて15分くらいのところにアパートを借りました。

 家内も私の趣味が野球一筋で、その後、新婚家庭を放り投げ、子供が生まれても手伝いもせず、ひたすら野球三昧、野球バカの人生を送る亭主になるとは知らずに嫁いできたと思います。

 この会社での野球活動は2週に1回くらいの割合で練習または試合をしていました。この頃の会社の休みは日曜日だけでしたので、仕事疲れもあり2週に1度の野球でちょうどよい感じでした。
またこの会社時代の野球を振り返ってみますと、遊びの野球で勝っても負けても、喜びとか悔しさとかの感情はなく、部創設当時の熱い思いはいつの間にか消し飛んでいました。

 その内に私たちもいつまでもアパート暮らしはできないと考え、昭和45年の秋ごろ東京都供給公社が、町田市に建設中の団地募集を知り、応募した結果抽選に当たりました。

 当選した当時の気持は、やっと当たった団地だからと、町田市への転居を一応考えていたのですが、たまたまその後に団地を特集したテレビ放映があり、内容も町田団地周辺のものでした。
鉄筋コンクリートの建物が何十棟も並ぶ光景をみて、団地住まいなどしたことのない私は戸惑いを覚え、躊躇してしまいました。

 そうこうしている内に、今度は新聞で茨城県の方で、村の人口流失に歯止めがかからないために、過疎化対策の一環として、土地は借地ながら70坪あり、住宅は2DKで小さいながらも自分のものとなり、85万円という安さも魅力で、とりあえず申し込んでみようと思い、役場へ問合せをして書類を送ってもらい申し込みをしました。

 年が明けた昭和46年の2月の初めに、この村からも当選通知がきました。とりあえず幸運は2度訪れたわけです。あとは町田へ行くか茨城の田舎に行くかの選択となりました。

 私は家内を連れて2月初旬の寒い日に茨城県の現地をみに行くことにしました。上野から常磐線に乗って取手駅で下車し、関東鉄道バスで取手から現地に近いバス停まで20分ほどの時間で着きましたが、取手からのバスが日中は1時間に1本ほどしかなく、相当に田舎だなと感じました。

 結局上野で電車に乗ってから現地まで2時間ほどの時間がかかりました。バス停から歩いて10分くらいのところに、私たちが抽選に当たった住宅が建築中で、マッチ箱のような住宅でした。
延々と続く田んぼに囲まれた分譲住宅で、買い物をするような店など見当たらず、引っ越した場合、食事の用意などはどうすればよいのだろうと不安になりました。

 家内は「こんな田舎に引っ越してくるのは絶対に嫌だ」と強く反対されました。しかし、私は家内の反対を押切って町田を諦め、茨城県筑波郡伊奈村(昭和60年に町となる)への転居を決めました。
引越しは昭和46年5月の連休を利用して行ないました。品川のアパートで長女が誕生していましたので、親子3人このときから茨城県人になりました。

(平成15年3月10日・記)



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