◇◇ 平田 東審判員 ◇◇


■その16
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 茨城県の片田舎の伊奈村(当時)に転居し、通勤に2時間を要して働くことに専念した4年間でしたが、同じ住宅に住む人の呼びかけによって、野球チームを結成して活動を始めたものの、初出場した秋の二つの大会は、ともに2試合連続でコールド負けという苦いスタートとなりました。

 結成した昭和50年のチームの成績は、練習試合を含めて9試合を行ない、4勝4敗1分の成績でした。

 結成時の部員数は36名でしたが、年が明けた春には野球経験のなかった人や、ソフトボールと勘違いして入部した人など、8名が退部して28名の部員となりました。

 当時村の野球組織は社会人野球連盟と称していましたが、茨城県の軟式野球連盟も組織系統が未整備で、都市部は別として、末端の町や村は軟連の指揮下に属することなく、村教育委員会の主催による春と秋の二つの大会が行なわれているに過ぎませんでした。
 現在のように東日本・国体・高松宮賜杯・天皇杯などの大会が行なわれていることも知りませんでした。

 私たちがチームを結成した前後の年から、野球ブームが到来し各地でチームの結成が相次ぎ、大会も村の大会の他に、県会議員や市町村長が主催する選挙がらみの大会がいくつかあり、参加チームも多く盛大に行なわれていました。

 当時の村内外で参加可能の大会を列記しますと、伊奈村春季大会・秋季大会、筑波郡社会人野球大会、筑波郡職業人野球大会、伊奈・谷和原親善野球大会、東ファイターズ杯野球大会、谷井田地区野球大会、分譲住宅連合会春季大会・秋季大会などがあり、各大会に参加するには日程の調整が大変でした。

 ちなみに当時と28年後の現在を比較してみますと、登録チームは、昭和51年:31チーム、平成15年:14チーム、大会数は、昭和51年:9大会、平成15年:町の春と秋の2大会のみで、当時と比べて参加チーム数・大会規模ともに、極端に衰退した現状の姿は本当に淋しい限りです。

 チーム数の減少は、約30年という時代の流れの中で、人口の少子高齢化やスポーツの多様化などの影響が主な原因と考えられます。

 結成2年目を迎えた昭和51年の春に「ヤイターズ」は、私をキャプテンに選出しました。

 素人集団のチームは、春の大会(当時の春季大会は5月開催・現在4月)までの約3ケ月間、毎週日曜日の練習はもとより、週3回夜間の体力づくりのためのランニング主体のトレーニングを始めました。
 野球経験者は、早稲田実業で2年生まで硬式野球部に所属していた、私より一回り若いAと2人だけでしたので、試合でまともに戦えるチームにするには、練習を積み重ねるしかありませんでしたので、練習は徹底したスパルタ方式で鍛えました。

 いま草野球で当時のような練習法をすれば、辞めていく人が続出し批判が私に集中するでしょうが、部員の方は陰口を叩きながらも私に付いて来てくれました。
 
 村のどのチームも行なっていなかった夜間トレーニングと、試合経験を積むために毎週日曜日には、練習試合を多く組みました。
 その中で盗塁、送りバント、スクイズ、ヒットエンドランなどを行なうためのサインプレイを徹底して教え込み、コーチスボックスでのランナーコーチの重要性も説きました。
 またスコアラーにはスコアブックの記入法を教え、チームの個人記録はもとより相手チームの記録もすべて残し、データを基に相手チームの研究にも役立てました。
 
こうして素人集団はメキメキと技術が向上してゆきました。

 春の大会がはじまり1回戦を突破して2回戦で村の古豪チームに6−8で敗退しましたが、この試合で村の古豪チームと互角に戦えたことで、もう一歩の努力だと確信を得ました。
 その後も練習試合を数多く行なって、更に試合経験を積むことに重点をおきました。

 そして分譲住宅の春季大会(リーグ戦・7チーム参加)がこの年からはじまりましたが、チーム結成後、記念すべき初の優勝を飾りました。
 また、夏には25チームが参加して開催された東ファイターズ杯の大会で、4試合を勝って優勝しました。
 谷井田地区の大会では準優勝、秋の村の大会(この年から1部・2部制)では、1部で準優勝に輝きました。

 昭和51年のシーズンは、優勝2回、準優勝2回という成績を残し、結成して1年4ケ月のチームにとっては上出来であったと思います。
 
 チームの年間勝敗数は、30試合を戦って20勝9敗1分の成績でした。

 私は若いときから酒は飲まなかったのですが、試合に勝って飲む酒の美味さを知ってからは、キャプテンという立場もあり、酒を飲む席を積極的に設定し、各部員の座敷を借りたり、また庭の芝生の上を利用したりして飲む機会を増やしました。
 そして2〜3年後には、私がチーム一の酒飲みになっていました。
 私は結婚するとき、今の家内に「僕は酒を飲まないし、あんなに苦くて不味いものは今後も飲まない」と約束に近いものをしていたのですが、このときあっさりと約束は破られてしまいました。

 一定の成績も残しチームのムードも盛り上がったことで、一泊旅行で納会をとの話が持ち上がり、房総半島にある国民宿舎の白子荘に全部員が参加して行ないました。

 そして宴会の盛り上がったところで、個人賞の発表に移りました。
 
 個人賞も、最多試合出場、打率、最多安打、打点、得点、ホームラン、勝利打点、三振、四球、盗塁、失策、犠打、出塁率、などの各賞を受賞者に渡し、最後に今年度チームにもっとも貢献した最高殊勲選手賞の発表に移ります。(最高殊勲選手賞は全部員の投票で決定)

 私は、打率・4割0分5厘、得点・35、ホームラン・5、盗塁・24、で1位の、また出塁率・5割4分6厘、四球・19で、2位の表彰をそれぞれ受賞しました。

 こうして私の本格的な、草野球の長旅がはじまりました。

(平成15年4月11日・記)



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