チーム結成後5年間の累計が、118戦82勝32敗4分の成績を挙げましたが、発足時のメンバーのほとんどが素人だったことを思えば、上出来の部類ではなかったかと思います。
昭和55年は、私が監督に推薦されてさらに勝つための野球を徹底しました。
まず、結成5年が経過しある程度の成績を挙げたことで、チーム内に少々気の緩みが感じ取れたので、この面には特に気合を入れなおしました。
データを重視し、過去のスコアブックを調べてみました。
その中から盗塁の成功率は実に9割が成功していることを発見し、鈍足選手以外は塁に出るとどんどん走らせることにしました。
打順はできるだけ固定し、守備の方も肩の弱いものは二塁手、守備は下手ながら捕球が上手いものは一塁手などに配置しました。
またサインプレイを重視し、送りバント、ヒットエンドラン、盗塁、スクイズバントは通常のスクイズと2球後のスクイズ、また2ストライク後からでもスクイズを敢行させました。
私は高校時代の夏の大会で苦い思い出がありますので(2年連続で最終回にサヨナラ負け)試合は最後まで気を緩めず、点が取れるときには徹底的に点をとる野球に徹しました。
そしてリードされているときには、最後の最後まで諦めない野球に終始し、生まれて初めての監督1年目のチーム成績は、31戦28勝3敗の好成績を挙げることができました。
チーム内に気合を入れなおし、徹底して勝つ野球を追求した結果ではなかったかと思います。
恐らくこのときの私の野球は、高校野球そのものであったと思います。
108チームが参加して行なわれた、筑波郡社会人野球大会で、私が選手宣誓の栄誉に浴したのもこの年でした。
地元中学校での開会式は、グラウンド一杯に広がる大勢の選手と、多数の県会議員や近隣町村長などが来賓として出席する中での選手宣誓は、極度に緊張しましたが、大役を終えたあとのホッとした気持は今でも忘れることはできません。
このときの宣誓の雄姿?を誰が写したかは忘れましたが、私のアルバムの片隅に記念として残っています。
この大会では、小絹施設園芸を決勝戦で破り見事に優勝を飾りました。
この他に、村の秋季大会と分譲住宅の秋季大会にも優勝しました。
また、伊奈・谷和原親善野球大会では3位となり、監督1年目のシーズンを無事終わることができました。
昭和56年は監督2年目で、村の春季大会3位、谷井田地区大会2位、この年の優勝は分譲住宅秋季大会だけに終わり、昨年に比べて成績は今一つで、36戦27勝7敗2分でした。
監督3年目の昭和57年は、村の春季大会3位、秋季大会1部優勝、110チームが参加して行なわれた筑波郡社会人野球大会3位、伊奈・谷和原親善野球大会準優勝、分譲住宅春季・秋季大会優勝、東ファイターズ杯の野球大会にも優勝し、この年の年間成績は、35戦30勝5敗でした。
この年の夏前に、自宅近くの路上でバイクを運転中、左側に停まっていたすし屋さんのワゴン車が後方確認をしないで発進したため、この車を避けきれずに車の側面に衝突して左足の指を骨折し、その後の試合はプレイできなかったものの、松葉杖をついてベンチから采配をとりました。
監督4年目を迎えた昭和58年は、幸先よく村の春季大会でチーム結成以来初の優勝を飾り、筑波郡大会への出場権を得ました。
昨年度でチームを結成して8年が過ぎ、その間数々の優勝を飾りましたが、村の春季大会だけはどうしても優勝することができなかったのですが、この優勝で念願が叶いました。
筑波郡大会は数人のメンバーを補強して出場しましたが、1回戦で敗退しました。
補強選手に気を使いすぎたことと、「ヤイターズ」というチームはチームプレーで成り立っていたことを忘れ、補強に重点を置きすぎてしまったことで、自分達の野球ができずに負けてしまったことに悔いが残りました。
その後チーム内には念願の郡大会出場を果たし、目標の一つが達成されたことで、勝ってあたり前のような雰囲気が感じられましたが、この年は村の春季大会優勝の他に、伊奈・谷和原親善野球大会、分譲住宅杯の春と秋季大会に優勝したものの、村の秋季大会は早々と2回戦で敗退してしまいました。
私は、昨年に続いて夏の終わり頃、仕事中に西新井橋(東京都足立区)の上でバイクがスリップして転倒、利き腕の右肩を強打して、その後の試合では肩の痛みが酷く、ボールが投げられなくなり、秋の大会からは痛み止めの注射を打ちながらプレーし、守備は捕球するだけの一塁を守り、打撃の方は左打席で打ちましたが、「ヤイターズ」在籍10年の中でこの年は、個人の打撃成績としては最低の記録を残して終わりました。
チーム成績も振るわず、26戦19勝5敗2分に終わりました。
昭和58年のシーズンが終わり、暫く肩の様子をみましたが一向によくなるけはいがなく、チームの納会の席で肩の故障と4年間も監督を務めたので、次の人にバトンタッチをしたいとの申し出を、チームメイトは快く了解してくれました。
オフになると、自分自身の野球人生の終局が近づきつつあることを感じながらも、一方で好きな野球が何とか続けられないかと考えました。
そして出した結論が、即引退せず来年1年間プレーしてダメであれば、そのときに最終結論を出すことにしました。
右投げ、右打ちは肩の痛みでできませんので、野球を続けるには左投げ左打ちに変える以外、チームに留まる方法はありません。
好きな野球を続けるために、12月から翌年3月までの4ケ月間、仕事中は昼休みになどを利用して、公園のブロック塀などを相手に、左でボールを投げては左肩の強化に努めました。
バッティングの方は、会社から帰宅して夕食後に、左打ちで素振り200回を日課としました。
明けて昭和59年は、チーム結成10年目の節目の年となりましたが、私にとってはオフに左(肩・腕)を鍛えた成果次第では、引退を覚悟してのスタートを切ることになりました。
守備の方は昨年後半と同じように一塁を守り、打順は変わらず1番を打ちました。
守りも打撃も引退覚悟でしたので、1打席、1打席に悔いが残らないように全力を尽くしました。
この年のチーム成績は、伊奈・谷和原親善野球大会2年連続優勝、谷井田地区大会優勝、分譲住宅杯春季大会優勝、村の春季大会3位、秋季大会では優勝を飾りました。
筑波郡社会人大会は昨年から、筑波郡職業人野球大会はこの年から、また伊奈・谷和原親善大会は、昭和60年からそれぞれ中止となり、野球ブームにも陰りの兆候が見え始めた時期であったと思います。
結果的に昭和59年は私がチームに所属した最後の年となりましたが、チームの成績は34戦31勝2敗1分と、結成10年間の中で最高の勝率を挙げました。
問題の打撃成績の方は、得点、本塁打、四球、盗塁の4つのタイトルを獲得することができました。
シーズンが終わりに近づいた頃、スポーツ新聞の小さな記事の中から、明治神宮審判協会が11月下旬に、審判講習会を行なうとの情報をチームメイトが知らせてくれました。
私も肩の故障さえなければ、講習会など見向きもしないで、プレイに専念したと思いますが、年令も45歳となり地元での選手活動も10年間続け、その中でキャプテンを3年、監督を4年間務めチーム成績・個人成績ともに完全燃焼して、納得いくものでしたので、この時点でプレイヤーへの未練は全くありませんでした。
昭和52年以来選手を兼ねての審判活動を続け、チームを退いた次の年の昭和60年から本格的な審判活動に入り、平成15年の今年で審判活動は通算で27年目を迎えましたが、その審判活動関係の話については次稿に譲ります。
東京から昭和46年に茨城県の田舎に転居し、昭和50年に地元居住者の二つを合わせた自
冶会で、チーム結成を機に入部し、その後の10年間は、家事も育児も一切ノータッチで家には迷惑の掛けっぱなしとなってしまいました。(その後も同じ傾向が続いています)
私の青春?を捧げた「ヤイターズ」時代の後半の5年間を下記にまとめました。
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