野球の起源と歴史&審判活動記録

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●18世紀〜19世紀

 18世紀に入ると、英語の“Baseball”という言葉が書物にあらわれ始めるようになりましたが、これは大半が前述のラウンダースのようなゲームの一種である「ストールボール」を言い表したものでした。

 イギリスで1744年に刊行された“Apretty Iittle pocketbook”には、ストールボールを描いた木版画に「ベースボール」と題された記述が見られます。

 またプリンス・オブ・ウエールズとその家族が、1748年に野球のようなゲームを楽しんだとの記載が、当時の側近の日記に記されています。

 アメリカ合衆国で“Baseball”という言葉が記された現在分かっている最も古い文書は、1791年にマサチューセッツ州ピッツフィールドで記された、町のグラウンドの利用に関する内規で、これは町の集会所の窓にボールが当たって壊れないように、集会所の建物から80ヤード以上離れた場所でしか球技を行うことを認めないという内容で、様々な球技の一つとして“Baseball”や“Batball”といった記述が登場しています。

 1834年には、アメリカでロビン・カーバー編「スポーツの本」という本が発行され、ラウンダースが「ベースボール」として紹介されています。

 ただし、この時代にはまだルールは地方によってまちまちで、定まったものではありませんでした。

 また1838年6月4日にカナダ・オンタリオ州のビーチビルで行われたタウンボールの試合の詳細な記録が、後年1886年に発行された、スポーティングライフ紙に掲載されており、この試合はカナダにおける野球の始まりとされています。

 1840年代にニューヨーク・マンハッタンでボランティア消防団を創設した、アレクサンダー・カートライトという男がいました。

 彼は団員の結束を強め、さらに彼らの運動不足を解消するにはどうすればいいかを考え「屋外でのスポーツ」という結論に至ったのです。

 1842年、彼は消防団からメンバーを募り「ニッカーボッカーズ」というスポーツ団を発足させました。

 このニッカーボッカーズは、近隣のマレー・ヒルという地域でタウンボールをするようになりましたが、タウンボールはルールが厳格に定められたスポーツではないため、時や場所によってルールを一々変える必要があったので、カートライトはこの煩わしさを解消するために統一ルールの策定に乗り出しました。

 1845年のある晴れた日、マレー・ヒルでボール・ゲームをしていた団員の元に、カートライトがやって来て、自身がまとめた新しいゲームの案を披露しました。

 主なルールは次の通りです。

*チームの人数を攻撃側と守備側それぞれ9人ずつとし、一方のチームが攻撃中には相手は全員フィールドに散らばり守備につく。

*フィールドを菱形に設定し、ホームベースに鉄のプレート、その他の3つのベースに砂を入れたカンバス地に袋を置く。塁間は90フィート。

*(1)打者が3球を空振りし、その最後の球を捕手が捕球したとき。
 (2)打球がノーバウンドまたはワンバウンドで捕球されたとき。
 (3)打球が相手側に捕球され、走者よりも先に塁に送られるか、走者が塁に着くより先にボールでタッチされたとき。
 (4)捕球しようとする相手の邪魔をしたとき。

 以上の場合には攻撃側はアウトとなり、3アウトで攻守が交代。

*一塁または三塁の外側に出た打球はファールとなり、打者が塁に進むこと、それによって得点が入ることはできない。
 
*21点先取したチームが勝ち。

 団員は最初これを聞いた時には嘲笑しましたが、カートライトの熱心さに押されて、このゲームをやってみることにしました。
 すると結構面白いことがわかり、団員らはすぐにクラブを設立することにしました。

 これが現在のベースボールの原型と言われています。
 
 1846年6月19日には、マンハッタンの対岸に位置するニュージャージー州ホーボーケンにおいて最初のベースボールの試合が開催されましたが、カートライト率いるニッカーボッカーズはニューヨーク・ナイン相手に1—23で負けてしまいました。

 1861年から1865年の南北戦争は、北部で盛んだったベースボールを南部出身者に広める役割を果たしたと言われています。

 こうしてベースボールは全米で人気を博すことになりました。

 次回は、ルールの変還・日本における野球の歴史について触れます。


 (2010年1月15日)


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