野球の起源と歴史&審判活動記録

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 ルールの変遷(1845年〜1900年)

 ベースボールは誕生した後もルールの変更を繰り返しています。
 ルールの度重なる変更の狙いは「試合時間の短縮化」と「試合のスリリング化」の2つにありました。

 以下にルールの変遷を順に挙げます。
 1845年・アレキサンダー・カートライトが最初の野球ルールを作る。
 1848年・走者はボールをぶつけられてもアウトでなくなる。
 1854年・ボールの重さが規定される。
 1857年・ゲームは9イニング制となる。
 1858年・ホームから投手までの距離が45フィートとなる。
 1859年・バットの太さに制限が加えられる。
 1860年・ボールの重さに対しての変更があり、現在の規格と同じになる。
 1863年・「ストライク」と「ボール」のコールがされるようになる。
 1864年・フェアーボールはワン・バウンドで捕球してもアウトでなくなる。
 1871年・打者は「ハイボール」「ローボール」と投球を指定できるようになる。指定通りのボールが来ないと「ボール」、打者が指定した投球を見送れば「ストライク」が宣告された。
 1872年・投手はアンダーハンドの投球に限られていたが、スナップ・スローが投げられるようになった。
 1876年・バットの長さに制限が加えられた。
 1879年・全ての打たれなかった投球はストライクかボールに区分され、9ボールで 一塁へ。打者は自分の打球に触れればアウトとなる。
 1880年・8ボールで一塁へ。捕手が3ストライク目の球を直接捕球すれば、打者は三振でアウトが取られるようになった。
 1881年・投手と本塁の距離が45フィートから50フィートへ延長された。
 1882年・7ボールで一塁へ。横手投げが解禁される。審判員が判定を覆すのを禁止。
 1884年・6ボールで一塁へ。上手投げが解禁される。
 1886年・7ボールで一塁へ。一塁と三塁のベースはファウルラインの内側に置くことに改められる。打者が投球に触れたときは打数から除く。
 1887年・打者が投手に投球コースを指定できなくなった。5ボールで一塁へ。この年のみ5ボールは安打と記録され、4ストライクでアウトに。死球で一塁が与えられた。
 1889年・4ボールで一塁へ。
 1891年・プレーヤーの交代は試合中いつでも可能となった。
 1893年・投手と本塁の距離が50フィートから60フィート6インチに変更された。
 1894年・バントのファウルをストライクとカウントする。犠打を打数から除外する。
 1895年・ファウルチップをストライクとカウントする。インフィールドフライの規則ができる。バットの太さが現行のものと同じとなる。
 1900年・五角形のホームプレートが採用される。

■試合の進行について
 ベースボールが誕生した当初は21点を先に挙げたチームが勝ちであったが、あまりにも時間がかかりすぎるために、1857年に「9回終了時に得点が多かったチームの勝ち」ということに変更となる。

■投球について
 投手は最初下手投げしか投げることが認められず、打者は投手にコースの指定ができた。

■日本における野球の歴史
 日本へは、1871年(明治4年)に来日した米国人ホーレス・ウイルソンが当時の東京開成学校予科(その後旧制第一高等学校、現在の東京大学)で教え、その後「打球鬼ごっこ」という名で全国的に広がって行きました。

 従って、日本国内の野球の創世記の歴史は、そのまま大学野球の創世記の歴史と重なっています。
なお、ホーレス・ウイルソンは2003年(平成15年)、その功績から日本野球殿堂入りをしています。

 日本人が野球と出会った1873年には、他にも以下のようなことがありました。
★徴兵令が布告され、満20歳の男子が陸軍や海軍に徴兵される。
★飛脚を禁止し、官製葉書が発行され、近代郵便制度が確立される。
★太陽暦が採用され、日曜が休日となる。
★国立銀行条例に基づき、第一国立銀行をはじめ4行が設立される。
★ビール・巻たばこ・帽子が流行する。

 日本の野球の歴史は、まだ飛脚がいたような時代にスタートしていたのです。
ちなみに散髪許可令は1871年に出されていますから、2年前までは大多数の男性がチョンマゲ姿だったということになります。
 
 この頃は、さすがにユニフォームなどはなく、和服に素足でプレーしたようです。
しかし、雨の日でも蓑(みの)を着て、傘をかぶって練習したという話があるそうですから、当時の野球原人達の野球意欲は、今日の草野球人に決して引けをとらないものであったことが伺えます。

 但し、この頃の野球は、投手はすべて下手投げ、ストライクゾーンは打者が指定するという、今とまったく違う形で行われていました。
 これは日本人がそうしたのではなく、当時のアメリカの野球がそうだったからです。

 アメリカで近代野球が確立するのは1901年ですから、日本の野球はアメリカの近代野球をそのまま輸入して、発展したものではないということがわかります。

 1877年(明治10年)には、日本で初めて社会人のクラブチームが誕生しました。
作ったのは、当時22歳の平岡熙(ひらおか ひろし)という人です。

 機関車製造技術を学ぶために1871年にアメリカに渡り、1877年に帰国して今の国土交通省に当たる工部省の技師になった人で、このクラブチームは「新橋アスレチッククラブ」という名前で、ユニフォームを着てプレーした最初の野球チームでもありました。

 この後、第一高等学校や帝国大学の学生達によって野球が活発になって行きました。

■野球という言葉の語源
 「ベースボール」を、初めて「野球」と日本語に訳したのは、第一高等中学校(1894年、第一高等学校に改称。第二次大戦後の学生改革の際に東京大学に併合され、新制東京大学教養学部となる)の野球部員であった中馬庚(ちゅうまん かなえ)です。

 1894年(明治27年)、彼らが卒業するにあたって部史を刊行することになり、中馬の書いた文章中に「野球」が登場します。

 逸話として、同僚で名投手の青井鍼男が「千本素振り」をやっているところに、中馬がベースボールの翻訳を「Ball in the field―野球」とすることを、伝えに来たと言われています。

 野球という言葉は、1889年(明治22年)に喀血してやめるまで、捕手として好んで野球をプレーした、明治期の俳人である松岡子規が翻訳したという俗説がありますが、これは間違いです。

 なぜなら、1896年に新聞「日本」に連載した子規の随筆『松羅玉液』の中で、「ベースボールいまだかって訳語あらず」と書いているからです。
 この俗説は子規が自らの幼名である「升(のぼる)」にちなんで「野球(のぼーる)」という雅号を用いていたことが誤解されたものと考えられます。

 子規は「野球(のぼーる)」という雅号を1890年(明治23年)に使い始めていますが、これは中馬が「ベースボール」を「野球」と翻訳する4年前のことでした。

 つまり、「野球」という表記を最初に使用したのは子規であるが、「ベースボール」を「野球」と最初に翻訳したのは中馬ということになります。
 しかし、子規は野球用語を数多く翻訳しており、2002年にはその功績によって日本野球殿堂入りを果たしています。

 なお、記録上日本で初めて国際試合を行ったのは、青井鍼男が投手時代の旧制一高ベースボール部で、1896年(明治29年)5月23日、横浜外人居留運動場で横浜外人クラブと対戦し、29−4で大勝しました。

 また、日本で初めて米国人チームと試合を行った(日米野球)のも、この旧制一高ベースボール部で、同年6月5日、雪辱戦として横浜外人クラブから試合を申し込まれ、横浜外人居留運動場で、当時の米国東洋艦隊の選りすぐりによるオール米国チームと対戦し、一高ベースボール部は再び32−9で連勝しています。


 (2010年2月1日)


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