野球の起源と歴史&審判活動記録

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  野球害毒論と野球統制令

★≪野球害毒論について≫
 限られた人たちのスポーツとしての野球の人気が異常な高まりをみせ、一般の少年たちにも娯楽として芽吹きはじめたころ、野球というスポーツに対して、明治44年8月29日(1911年)から当時の東京朝日新聞紙上に「野球と其害毒」という表題で22回にわたって連載され、賛否両論について話題となりました。

 当時は異常とも云える野球ブームで、特に早慶戦に至っては試合とともに応援合戦も活発化し、1906年には応援団の過熱化が原因で、予定されていた第3戦が中止になるという事態を招く一方で、選手の中には野球を続けるために留年を繰り返すものまで出るようになりました。

 この野球害毒論の発端は、当時の野球の過熱ブームに対する非難の声であったともいわれています。
 今にして思えば、思わず笑ってしまうような害毒論を説いた識者の声が残っています。

 ■害 毒 論 者 の 声

 ★≪新渡戸稲造・第一高校校長≫
 「野球という遊戯は悪く云えば巾着きりの遊戯、対手を常にペテンにかけよう、計略に陥れよう、塁を盗もうなどと眼を四方八方に配り、神経を鋭くしてやる遊びである。故に米人には適するが、英人や独逸人には決してできない、英国の国技たる蹴球の様に鼻が曲がっても顎骨が歪んでも球に嚙付いて居る様な勇剛な遊びは米人には出来ぬ。」

 ★≪川田府立第一中学校校長≫
 「良い選手と良い学生とは多くの場合、両立するものではなくして、野球の選手に学術の出来るもの、品行の良きものはいない。私の学校では絶対に野球を禁じてはいないが、只運動の範囲で許しているのみで、他校とは勿論試合を厳禁している。」

 「野球の弊害四ケ条」
(1)学生の大切な時間を浪費せしめる。
(2)疲労の結果、勉学を怠る。
(3)慰労会等の名目の下に、牛肉屋、西洋料理屋等へ上がって堕落の方向に近づいて行く。
(4)体育としても野球は不完全なもので、主な右手で球を投げ、右手に力を入れて球を打つが為右手だけが異常発達する。故に野球選手の右手右肩は片輪になっている。

★≪永井東京高師教授≫
 「現在の野球に就いて幾多の異議がある。野球は面白いから学生が耽り易く、従って大切な時間を空費し、身体を疲労衰弱せしめるまでに至っている野球選手が、学科の出来ないのはこの理由からである。昨今日本の野球は余りにも勝負に重きを措き過ぎているから種々の弊害がある。対手を怒らす様な拍手や弥次り方をしたり、悪口を云ったり対手の行動を妨害する様な卑劣な行為が行われている。」

★≪松見順天中学校長≫
 「手の平への強い玉を受けるため、その振動が脳に伝わって脳の作用を遅鈍にさせる。」

★≪磯辺検三・日本医学校幹事≫
 「渡米試合までして野球をやらなければ教育ができぬというのであれば、早稲田・慶応はぶっつぶして政府に請願し、適当なる教育機関を起こしてもらうがいい。早稲田・慶応の野球万能論の如きは、あたかも妓夫が廃娼論に反対するが如きのもので一顧の価値がない。」

★≪東大医科整形外科医局長・金子魁一≫
 「野球は上肢も発達すれば走塁などもするのだから下肢も発達し、戸外で団体的にする遊戯であるから先ず結構と云いたいが、団体的であると云う其の長所が即ち短所である。連日の疲労が堆積し、一校の名誉のために是非勝たねばならぬと云う重い責任の感が日夜選手の脳を圧迫し甚だしく頭に影響するは看易い理由である。野球は非常に強健な人ならば平気であるが、若し弱い者がやるとなれば必ず体を壊す。選手が神経衰弱に罹ったり肋膜炎になったりして、頭が悪くて出来ないのはその為である。」

★≪日本体育会長加納子爵≫
 この頃の野球選手の対抗試合や、国外旅行の如きを見るに、見物人を沢山集めて興業に等しき事をなし、終始特殊な人間がやっているのだから体育の旨意に離るは勿論、この見物人の多い運動競技は、嵩ずると遂に一国を亡ぼす基となる。」

★≪水戸中学長・菊池謙二郎≫
 「僕は遊戯としての野球其の者の弊害は認めない。野球は右手のみを発達せしめるとの非難もあるが、それは誤りである。青年の遊戯としては野球ほど快活で面白いものはない。       
それに一致協同の精神を涵養する上において非常に利益がある。それ故僕は野球其者については寧ろ賛成で排斥をしないのである。」

★≪野 球 統 制 令 に つ い て≫
 日本の軍国主義は昭和11年に入ると急速に高まり、昭和12年7月の日・中戦争が始まったのを機に、次第に軍部の台頭が目立つようになりました。
 日中戦争が4年目に入った昭和16年6月4日の朝日新聞紙上に、第27回中等学校野球大会の社告が発表される。

 6月中旬以降甲子園を目指して、各地で地方予選が始まっていたが、文部省は軍部の要請でスポーツ各団体の代表を集め、府県外での試合の中止指令を出しました。
 このため大会は急遽中止せざるを得なくなり、文部省は軍部の圧力に屈し、これを機にスポーツ官僚統制が始まりました。

 昭和18年1月22日付の朝日新聞には、王国愛知で“排撃決意”、“野球を叩き出す”の大きな文字が躍っています。

 野球統制令とは、野球の統制並びに施行に関する件の略称であるが、学生野球の統制と健全化を目的として1932年(昭和7年)に、文部省から発令された訓令で、最終的には1947年(昭和22年)に、太平洋戦争終結とともにこの統制令は廃止されました。

 訓令が発令されることになった原因は、大正期から昭和期にかけての野球人気が高まる一方で、小学生から大学生まで学生野球に統一的なルールがなかったため、学生野球の商業化、興業化などの問題が指摘されていたためです。

 小学校レベルでは、大正期の軟式ボールの開発によって、軟式野球が全国的に普及し軟式の野球大会が全国的に行われるようになったが、これらの大会の主催者の多くが、軟式ボールを製造販売するゴムの会社で、自社製品の宣伝と販売を目的として大会が多く行われました。

 中学校レベルでは、朝日新聞社主催の全国中等学校優勝野球大会が、大正4年(1915年)に開始され、毎日新聞社主催の選抜中等学校野球大会が大正13年(1924年)に始まりました。
 その一方で、新聞社や電鉄会社などが主催して行われる野球大会も全国各地で開催されるようになりました。

 大学レベルでは、東京六大学野球連盟が1年間に40万円超の入場料収入を得ていたとされたが、会計の処理は不明朗なものが多く、中学校選手の引き抜きや選手の学業低迷などの報道もあり問題化しました。

 大正期に学校を中心とした野球の普及と人気の拡大があり、その結果として、大会の乱立などにより、様々な形での金銭の授受が行われるようになって行きました。

 このような状況は、学生野球の興業化、商業化、マネキン化などとして、常に批判的に捉えられていたが、当時の学生野球にはそれらの問題を防止するための全国的な統一団体や統一規則は、存在していませんでした。

 1931年6月(昭和6年)、文部大臣の諮問機関である体育運動審議会は「体育運動競技の健全なる施行方法に関する件」の答申を発表し、1932年2月24日に小学校、2月27日に中学校、3月2日に大学・高等専門学校の試合規定を作成。これらの規定が3月28日に文部省訓令第4号として発令されました。

 訓令の内容は、小学校、中等学校・大学及び高等学校の野球に関する事項として、それぞれに大会の開催、試合日の指定、県外校との対外試合の制限、入場料の収支・決算の文部省への報告義務・留年した選手の出場禁止、決算の報告義務などで、褒章等に関しては次のように定められました。(主なもの)

■文部省の承認のない外国への遠征と、来日外国チームとの試合の禁止
■優勝旗、優勝杯以外の褒章の禁止
■選手を広告・宣伝に使うことの禁止
■文部省の承認のないプロ選手との試合の禁止
■コーチ、審判が経費以外の金品を授受することを禁止
■選手を理由とした学費・生活費の支給禁止

 訓令によって、中等学校の全国大会の開催や大学野球連盟の設置に文部省の承認が必要になったが、1943年(昭和18年)3月、太平洋戦争の悪化に伴って「戦時下学徒体育訓練実施要綱」が文部省によって制定され、中学校のスポーツの全国大会及び大学のスポーツのリーグ戦などの開催も禁止されることになりました。

 これを受けて同年4月6日、文部省体育振興課から、東京大学野球連盟に対して「連盟解散通知書」が手渡され同月28日、文部省の通知書に従って東京六大学野球連盟は解散することになりました。

 戦局の悪化に伴う文部省の学校体育スポーツ政策の転換があったことは確かですが、文部省の学生野球弾圧を法的に可能としたのが本訓令だったのです。

 戦時中の学生野球弾圧がこの訓令であったため、1946年(昭和21年)2月から文部省体育課長と東京六大学野球部長やOBを中心として、訓令の廃止と学生野球統制団体の設立に向けた話し合いが行われることになり、1946年8月学生野球指導委員会が結成され、「学生野球基準要綱」が制定されました。

 これに伴って本訓令は、翌1947年5月21日発令の、昭和22年文部省訓令第6号によって廃止されることになりました。


 (2010年3月1日)


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