野球の起源と歴史&審判活動記録

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≪高校関係のトラブルの記録≫

 * 大正7年・第4回全国中等学校野球選手権四国大会決勝戦(丸亀中対今治中)
 ≪ スパイク事件 ≫
 大会が始まったばかりの大正時代には棄権試合が多い。
 1日に3試合もやらされ、クタクタになったためとか、相手校が卑怯でおもしろくないからとか、今では考えられないような棄権だが、四国で起こったスパイク事件もその一つ。
 丸亀中は1回から好調に攻め3回途中で11-2、この回の攻撃中に内野ゴロを打った丸亀中の打者が一塁へ滑り込んだ。

 このスライデングで今治中の一塁手が負傷、大会本部はやり方がよくないと9点もリードされている今治中に勝ちを与えた。
 記録上は丸亀中の棄権扱い、乱暴な大会本部もあったものだが、これにはわけがあった。
 丸亀中は準決勝の松山中戦で、旗色の悪かった試合を時間の引き延ばしを図って、日没再試合に持ち込んでいた。

 もともと"武士道精神"で始まった当時の野球、本部役員の心証を害していたらしい。
 この試合に出場していた元丸亀中のある選手は、当時を振り返り「一塁手の守備もまずかったが、けがは軽かった。注意するだけですむことだったのに」と残念がる。

 *昭和25年7月30日・全国高校野球選手権北陸地区2次予選(武生高対高岡東部高)
 ≪ 高岡東部高校を除名・観衆の審判殴打事件 ≫
 県立富山球場で行われた試合中、審判の判定にいいがかりをつけ、二塁塁審の安広俊雄氏(石川県野球協会所属)を袋だたきにして傷を負わせた、高岡東部高校側観衆の暴行事件について、主催者の富山県高校野球連盟から、善後処置を全国野球連盟本部に相談をしていたが、8月9日の本部理事会で高岡東部高校の無期限除名処分が下された。

 *昭和32年7月22日・全国高校野球選手権東京都大会(駿台学園高対都五商高)
≪ ドロ試合に審判怒る ≫
 雨の中で始まったこの試合は、1回先行の五商は猛打を発揮してツルベ打ち、打者三回り26人がランニングホーマー2本を含めて21得点、この回だけで35分の珍記録。
 2回にも8点が入った。このあと雨天ドロンゲームになってはと、五商側はわざと三振をしたり、打っても走らない行為が続き、一方の駿台側も、こっちはこっちで時間をかせげとばかりに球を送らず、歩いてくる五商側の打者になかなかタッチせず、審判は両チームの一連の行為にカンカンになったが、どっちもどっち、結局試合は5回コールドゲームの後、両チームを呼んで警告を発した。

 *昭和33年7月31日・全国高校野球選手権埼玉県大会準決勝戦(熊谷高対大宮高)
 ≪ 心ない一部のファン 熊谷高野球部に対外試合禁止処分 ≫
 5回表、1-0とリードされていた熊谷高校のとき、遊ゴロで本塁に突っ込んだ三塁走者は一瞬の差でアウトとなった。

 ところが一塁側スタンドに陣取った熊谷高一般応援団の中から6、7人がグラウンドに飛び降り、小林主審に食ってかかり、殴るけるの乱暴を働いた。
 このため大宮署員の増派を頼むなどで、試合は約40分間中断され、没収試合とする意見も出たが、熊谷高ファンの代表がわびを入れて、午後2時40分に試合を再開、熊谷高はその直後に2点を入れたが、結局3-2で大宮高校に敗れた。

 *昭和36年7月19日・全国高校野球選手権栃木県大会(宇都宮高対馬頭高)
 ≪ ナゾにつつまれたボール・カウント ≫
 3回裏・二死後宇都宮高の山形選手が空振りの三振をした。
 両チームが攻守の交代にかかったところ、ネット裏の審判員から「待った」が出た。
 「公式記録員のスコア・ブックでは三振前に四球になっている」と津野田主審に注意し、主審は自信がなかったようで、宣告をひるがえした。

 おさまらないのは馬頭ナイン、ベンチから出て行かない。そうこうするうちに、主審は「自分のゲージは2-3になっている」といい出し、両チームのスコア・ブックを見るとやはり2-3。公式記録員の記録では三振前に四球。山形選手は「2-3から六球目を空振りしたと思う」という。
 結局、主審の判定に従うということで三振におさまった。主審の自信のなさがもたらした10分間の騒動だったが、「公式記録員や掲示板のスコア係を高校生に任せていたという運営の甘さを反省せよ」の声も出た。

 *昭和41年7月30日・全国高校野球選手権東京都大会(修徳高対早稲田実高)
 ≪ 隠し球に殺気立つ ≫
 8回表・修徳攻撃のとき、一死後一塁走者辻が吉岡の三塁ゴロで一挙三塁を狙いセーフ。
 ところが砂塵の中に立ちあがった辻が、ホッと一息ついてベースを離れた途端、後ろからひそかに近づいた左翼・谷川が隠し球でタッチ。しかし遠藤塁審がとりあわなかったため早実側はアウトを叫んで再三の抗議の末、ついに全員ベンチへ引揚げた。

 四審判合議の末アウトを修徳に申し入れたが、今度は収まらないのが修徳。一時は辻が金子主審に食ってかかる場面もあり、場内は騒然となる。結局3点をリードした修徳が折れたが、この間試合中断は11分、大会を通じて唯一のやや殺気立つ試合となった。

 *昭和44年7月19日・全国高校野球選手権静岡県大会準々決勝(静岡高対修善寺工)
 ≪ 公式記録が大混乱・猛暑と打撃戦が原因? ≫
 猛暑プラス壮絶な打撃戦が原因?で、審判と監督が役目を忘れたため、公式記録がメチャメチャになった。

 静岡大会9日目の静岡高対修善寺工戦は、カンカン照り、気温35・6度、不快指数82という文字通りの"真夏の球宴"。試合は19-7、両軍合わせて本塁打1を含む34安打というカッカとするような打撃戦。
 この暑さに選手交代や通告を忘れた監督や、通告を受けたが公式記録員に知らせるのを忘れてしまった主審などボーンヘッドが続き、静岡・松下選手は本塁打を放ったにもかかわらず、先発の選手の記録にされてしまうなど、記者席も大混乱。

 熱戦を続ける選手たちも何を早合点したのか、5回が終わって両軍ナインがホームプレートに整列、主審もつられて「ゲーム終了」の手を上げかけた。
 塁審の大声でやっと気付いたが、両校の監督はキョトンとして「なぜ?」と大会本部に"抗議"、大会規定(静岡は準々決勝戦からコールドゲーム制がない)をよく読めと叱られてチョン。

 *昭和57年7月25日・全国高校野球選手権岩手県大会(花巻北高対福岡高)
 ≪ 花巻北のファンやOB、深夜まで抗議・日没コールドに不満 ≫
 8回裏、福岡が無死で6点を入れて13-11と逆転し、なおも攻撃中の午後7時14分、球審が日没コールドを宣告した。

 この決定に花巻北のOBやファン数十人が「8回以降再試合にしろ」などと審判団に抗議。小原県高野連会長らが大会ルール上は問題がないことを説明したが納得せず、結局最後まで残っていたファン約30人が、26日午前零時半近くになってようやく解散した。
 前の試合が長引き、試合開始は午後3時53分。25日の盛岡の日没時刻は午後6時55分。点の取り合いで予想外に長引いた結果の騒ぎとなった。

 *昭和57年7月29日・全国高校野球選手権高知県大会決勝戦(高知商対明徳義塾高)
 ≪ 再試合なし 事態収拾へ"高知商サヨナラ事件" ≫
 高知商のサヨナラ劇で幕を閉じながら、押し出し四球の打者走者が一塁ベースを踏んでいないのに球審がゲームセットを宣告する「ルール無知のお粗末審判事件」のあった地元高知では一夜明けた1日、平静を取り戻し再試合はしないということで事態は収拾した。
 審判のミスで敗れた明徳は創立5年目でまだなじみが薄く、三分の一が県外選手であるのに対し、高知商は春夏21回も甲子園の土を踏んでいる古豪。
 
 *昭和57年8月11日・第64回全国高校野球選手権大会(帯広農高対益田高)
 ≪ 前代未聞4死チェンジ・うっかり審判、責任とって5人が出場自粛 ≫
 「1イニング4アウト」という前代未聞の珍事があった。
 益田8回表の攻撃は二死一塁から、5番・金原の二飛で3アウトとなった。しかし、この時点でスコアボードのアウトカウント表示が「2」のままだったため、森球審、山川、山口、加古の各塁審とも、3アウトであることに気付かず、次打者の池永が打席に入り三ゴロで4アウト(記録上は抹消)両軍ベンチ関係者も不審顔のまま試合は続行され、益田高校の勝利で終了した。

 この日は第3試合の東海大甲府―境高戦でも、本来なら守備妨害でアウトとなりベンチに下がらなければならない選手が、そのまま塁上に残ったのを見過ごした。
 また、同じ試合の3回裏、境高の攻撃中に1死一、三塁で本池のスクイズを一塁手がダイビングキャッチ、飛び出した一塁走者を刺して併殺が成立。
 この間に三塁走者がホームインしたが、野球規則では三塁走者のタッチアップはアピールプレーで、守備側のアピールがない限り、3アウトとなる前の三塁走者の生還は認められるにもかかわらず、無得点で見逃すなど、審判団の誤審と不手際続きの一日となった。

 *平成2年7月・第72回全国高校野球選手権千葉県大会準決勝戦(習志野高対印旛高)
 ≪ あわや放棄試合・印旛―習志野戦 ≫
 習志野の11回表の二死一・二塁の時、一塁走者・岩下がけんせい球で、一・二塁間に挟まれた。これを一塁手がタッチしようとしたが、結局生かしダブルスチールの形となった。
 一塁手は3フィートラインオーバーをアピールしたが、今関一塁塁審はセーフの判定。
 これに怒った印旛ナインは全員がベンチに引き上げてしまった。
 この抗議は約3分間で終わったが、試合後、蒲原監督は「投手と捕手が抗議していたので、まず呼んで、次に野手を引き上げさせた。これは抗議と選手を激励するつもりだった」と放棄試合の意図は否定した。

 *平成6年7月23日・第76回全国高校野球選手権山梨県大会(甲府工大付対峡南高)
 ≪ 三塁ライナーかワンバウンドか、
 不明確な塁審のジェスチャー巡り、放棄パフォーマンス ≫
 山梨県大会の3回戦であわや没収試合となる中断劇があった。
 峡南が0-7で迎えた4回表1死一・二塁、打者が三塁へ放った打球に対する審判の判定を巡って峡南ベンチが態度を硬化。選手をベンチに引き揚げさせる異常事態となった。
 37分間の中断の間に、放棄試合も辞さずとナインが本塁前に整列してみせるなど、高校野球らしからぬパフォーマンスも飛び出した。

 事の発端は4回表1死一・二塁で、峡南の4番・深沢が放った三塁へのライナーの打球。
 その判定を巡る渡辺三塁塁審の不明瞭なジャッジが混乱を招いた。
甲府工の久保三塁手はワンバウンドで捕球したと判断。併殺狙いで三塁ベースを踏んでから一塁に送球。渡辺塁審は久保が三塁ベースを踏んでから、自信なげにアウトのコール。
 久保田一塁塁審も打者走者にアウトの宣告をしたため、甲府工ナインはダブルプレー成立とベンチに引き揚げた。

 これを見た峡南の一・二塁走者も帰りかけたが、ダイレクト捕球と判断したベンチの指示でそれぞれタッチアップ。甲府工が引き揚げた後のダイヤモンドを回り、ホームを踏んだ。その時、慌てた米山球審(52)がインプレー中にもかかわらず、タイムを宣告したことから収拾がつかなくなった。

 併殺のジャッジならチェンジとなるし、タイム宣告は唐突だった。県高野連は「三塁塁審と球審はダイレクトで捕球したと確認して2死を宣告した」との見解を発表。
 まずは峡南に2死一・二塁での試合再開を諮ったが、秋山部長に拒否されると、今度は甲府工に「1点やってくれないか」と頼んだ。しかし、やはり断られ、結局37分間の中断の末、間をとって2死二・三塁という不可解な決着での再開となる。

 抗議権のない部長が執拗に抗議した点について、県高野連側は、秋山部長に対して「猛省を促す。高校野球は教育の場であることを忘れないでほしい。子供たちのことを考えて没収試合にはしなかった」と厳しい口調で語った。

 峡南は3年前にも同じような行動をしている。
 1991年(平成3年)の秋季県大会2回戦の対日本航空戦で、峡南投手の一塁けん制がボークを取られたことに秋山部長(当時監督)が抗議、18分間にわたり試合が中断した。この時も選手全員をベンチに引き揚げさせ、試合放棄寸前までいった"前科"がある。

 *平成6年7月28日・全国高校野球選手権埼玉県大会準々決勝戦
 ≪ ファン乱入、パトカー出動・球場厳戒態勢 ≫
 大宮市営球場で行われた、春日部共栄対埼玉工大深谷の準々決勝戦で、4-4の同点から10回裏に埼玉工大深谷のサヨナラの場面での判定をめぐり、ファンがグラウンドへ乱入する騒ぎとなった。

 2死一・二塁で5番・斎藤右翼手(2年)の一・二塁間を襲う痛烈な当たりを二塁手がダイビングキャッチにいった。はじくのを見た二塁走者の渋谷中堅手(2年)がホームに突入。二塁手も拾い直して本塁に送球した。

 走者がヘッドスライディングしたため、本塁付近は土煙に包まれ、交錯プレーが見えにくくなった。木村一男球審の判定も一瞬、間が空いた。
 「アウト」のジャッジにスタンドはしばし騒然とした。試合後も、怒った埼玉工大深谷応援団が15分間、審判更衣室に詰め寄り、緊迫したムードとなる。
 「ホームに触れていなかった」という木村一男球審(44)に対し、渋谷中堅手は「この左手でタッチした。自分たちは勝った」と涙で訴えた。

 *平成8年7月・全国高校野球選手権東東京都大会3回戦(駒大高対芝浦工大付高)
≪ 「死球か捕逸か」11分間中断 ≫
 駒大高が1点を勝ち越して迎えた延長11回裏2死二塁、芝浦工大高・成田への初球がヘルメットに当たったか、捕逸かで紛糾。

 本橋球審が塁審を集めて協議し両校ベンチに説明、結局捕逸となり、このプレーで生還していた二塁走者の得点が認められた。本橋球審は「当たっていないという自分の判断には、自信がある」と言った。
芝浦工大高の天野監督は「塁審を呼んで協議したのはおかしい。いちばん近くにいた審判が当たっていないと判断したのだから。ベンチに来る必要はなかった」ときっぱり。
 駒大高の涌井監督は「完全に当たっていたが、審判に文句を言っても仕方がない」と話した。試合は延長12回、10-9で駒大高校が勝った。

 高校野球に関するトラブルは、歴史を刻んでいるだけに全国各地のものを合わせれば、1冊の本になるくらいの数になるのではないかと思われるが、今回は紙面の都合もあり、記載したものだけにとどめた。


 (2010年7月1日)


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