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09メジャーリーグ観戦紀行(最終回)


 Final 『After The Game』

K・O審判員


8月1日(土)

 思えば今回のツアーはニューヨークを振り出しにシラキュースへ、そしてニューヨークへ戻り、マイアミ、タンパ、St.ピーターズ・バーグを巡り8試合を観戦。通算観戦試合は50試合くらいになるだろうか・・・?毎回、メジャーの醍醐味や熱戦そして多くの感動の連続。

 特に今回はメジャーはもちろん1Aや3Aのゲームを観戦。それぞれのアンパイアーのメカニクスも見ることが出来た贅沢なツアー。また、ベースボール観戦だけでなく、食べ物や観光もツアーの重要な役割を占めたのは確か・・・。

 マイアミではダウンタウンへ行けなかったが、キーウエストやSt.ピーターズバーグ(St.ピート)を観光することが出来たのは良かった。キーウエストにしろSt.ピートにしろ行く気で行かないと、なかなか行けないところ。何せ日本から遠い、遠~いところだから・・・。


 ナショナル・パスタイム(国民的娯楽)といわれてきたメジャー。選手の年俸高騰(今年の平均年俸は2.5億円)や新球場建設等でチケットが値上がり。手軽に楽しめたベースボールだが、足が遠のく一因になっている。そのしわ寄せはいつも末端のファンへ・・・。


 昨今、メジャーは新球場建設ラッシュ・・・。今回訪れたマイアミも新球場を建設中。そして新球場はみ~んな同じよう・・・。やっぱり懐古的なシカゴの『リグレー・フィールド』やボストンの『フェンウエイ・パーク』が断然好き。現存のまま開場し続けてと懇願。


 デトロイトの『ザ・コーナー』と呼ばれ親しまれた『タイガー・スタジアム』 濃い緑の天然芝とこもれる太陽。フィールドと観客席の距離が近く、選手と親近感が持てる・・・。旧くて決して綺麗とは云い難い球場だったが、それがまた魅力。シカゴもボストンもそ~んな雰囲気。いわばアナログ(?)感覚。前のヤンキー・スタジアムも良かったァ。独特の雰囲気があって・・・・。


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1914年にオープンしたシカゴ『リグレー・フィールド』蔦が絡まる外野フェンスは魅力の一つ。ミシガン湖から風が吹くとレフト屋根下席は夏でも真冬の寒さ。
写真:2004年8月26日撮影 対アストロズ戦

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1912年にオープンした『フェンウエイ・パーク』(ボストン)
現存の球場では一番古く、座席の前後の間隔が非常に狭い。
写真:2005年9月2日撮影 対オリオールズ戦


 ボールパークにはいつも多くの子供たち(男の子はもちろん女の子も)が家族、祖父や祖母に連れられ観に来ている。父から野球や選手の説明を受けながら、また祖父や祖母からは往年の名選手の活躍を聞きながらゲームを観る。知らず知らずの内にベースボールに愛しむように・・・。語り継がれる野球の歴史と選手の活躍。これがベースボールを観る原点。

 隣席には必ずといって良いほど友人、知人がおり『ハーイ、元気してたァ?』等と言葉を交わし、野球場はさながら家族の交流の場と化す。
 さァ、歌おう『Take me out to the ballgeme』 私を野球に連れてって・・・。そしてリズムに合わせセブン・イニングストレッチ。


 このすばらしい野球が我が国へ最初に伝えられたのは1872年(明治5年)といわれ、アメリカ人教師のホーレス・ウイルソンが第一大学校区第一中学(後の東大)の生徒たちに教えたのが始まりといわれています。


 その後、日本人で初めてカーブを投げた平岡煕(ヒラオカ ヒロシ)がアメリカからボールとバットを持ち帰り、明治11年に日本で初めてのクラブチーム『新橋アスレチックス俱楽部』を設立したのです。


 以後、早慶戦など大学野球が盛んになり、1915年には大阪豊中球場で第一回全国中学校野球大会(後の高校野球)が行われ、1936年に職業(プロ)野球団の発足、1947年には全国高等学校野球連盟設立(前身は全国中学校野球連盟)へとつながっていくのが我が国野球界の大よその経緯なのですヨ。

 そうです、日本の野球はアマチュアーからプロへと発展していったんですネェ。その野球の、今日の発展と隆盛は平岡翁なくしては到底考えられず、『野球の開祖』といっても決して過言ではないでしょう。


 今日、野球の面白さ、楽しさそして、そのすばらしさに触れることが出来る喜びは先人たちが残してくれた功績と努力のおかげですよ。


 『大日本東京野球倶楽部』(後の東京読売巨人軍)を創設し『大リーグに追いつけ、追い越せ』と執念を燃やした正力松太郎翁、戦前、戦後にわたり『日米の野球交流に尽力』した鈴木惣太郎翁など、日本プロ野球創成期には多くの関係者の熱意と尽力がありました。


『1934年の日米野球でB・ルースを三振にしとめた『不世出の剛速球投手』沢村栄治(巨 人)、日本人初の『300勝投手』ビクトル・ スタルヒン(巨人)、『初の完全試合投手』の藤本(中上)英雄(巨人)、『赤バット』の川上哲治(巨人)、『青バット』大下弘(西鉄)。


 『怪童』中西太(西鉄)、『400勝投手』金田正一(国鉄、巨人)、1958年の日本シリーズで三連敗後、巨人に四盾を喰しめ日本一に輝き『神様、仏様、稲尾様』と言われた鉄腕稲尾和久(西鉄)、『V9戦士』の長嶋茂雄と王貞治など、多くの天才、奇才、鉄人、怪童、怪物、鉄腕、豪腕、神様たちがファンを引き付け、魅了し熱狂させて野球の普及と拡大に努めたのを忘れないことにしよう。



 また、それらを演出した『魔術師』三原脩、『ダンディズム』の水原茂、『哲のカーテン』を敷きV9を達成した川上哲治、『悲運の闘将』西本幸雄、など監督の功績も大きいものがあるのですよ。



 そして『俺がルールブックだ!』と言って審判の権威を守った二出川延明(元パ・リーグ審判部長)や国際基準の審判技術を研修し、その普及に努めた西大立目永(元日本野球規則委員会委員長)の功労も見逃すわけには行かないでしょう。


 一方、高校野球を『教育の一環』と位置付けし、『アマチュアリズム』を謳いあげ今日の発展へと導いた初代高野連会長、佐伯達夫翁の功績をも見逃せませんね。
 何せ、高校野球は地域住民が一喜一憂し、全国民が熱中する日本最大のイヴェントであり、日本文化の一つなのですから・・・。
 小生なども若かりし頃は(いまもそうですが・・・)夢中になったものです(その頃の純粋さが少々失われつつある今日この頃ですが・・・)



 しかし、同じ野球でも『ベースボール』と『野球』ではその意味合いがかなり違います。


 野球は勝ち負けの結果を求められ、ベースボールは勝ち負けよりもプレイを楽しむこと(プレー・ボール)が第一と考えられています。
 投球のカウントを『・・ストライク、・・ボール』とコールする野球に対して『・・ボール、・・ストライク』というベースボール。最初にストライキをコールする野球は守り(打者をアウトにする)の考え方が優先し、一方のベースボールではボールを先にコールします。
 それは『打者へもっと良い球(ストライク)を投げよ!』という意味合いの投手への警告なのです。そして、ストライクコールは『いい球をなぜ打たないのだ!』と打者に対し積極打撃を促しているのですねェ。

 そうなのです、野球は元々打つこと(打撃重視)から始まっているんですヨ。すべてに打つことが優先され、そこにあるのは野球の原点『Fairness(フェアーな精神)』です。皆、これを忘れないようにしましょう・・・。



 上野の恩賜公園内に『正岡子規記念球場』という野球場があるのをご存知ですか? 詩人の正岡子規がここで野球を楽しんだとされているところです。

 Baseballを『野球』と命名したのは中馬庚(チュウマン カナエ)ですが、外来語の『バッター』、『ランナー』、『フォアーボール』、『フライボール』等を『打者』、『走者』、『四球』、『飛球』と訳したのは子規本人です。本当に名訳ですねェ。



 実は、8月1日の早朝、タンパからシカゴ経由で帰国するはずだった飛行機に乗り遅れ、翌日の予約を取る羽目になっちゃった・・・・。
 何せタンパ空港UAのカウンターに着いたが出発10分前。『アちゃ~乗り遅れたァ~!』完全な寝坊・・・?タンパに延泊することに・・・。
 その日はダウンタウン近くの『Channel District』へ行きタンパ湾クルーズに乗ろうとしたが、土曜日のため予約が満杯。仕方なく『Channelside Bay Plaza』を観て廻った後、『Teco Line』(2.50㌦)に乗り『Centro Ybor 』を散策。イボール・センターのあるYbor City(イボール・シティ)はレンガ造りの古い町並みが多く、歴史市街地に指定されている。


写真
Channelside Bay Plaza。人が少ない。
このときは熱波で非常に暑かった。

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Teco Lineよりダウンタウン方向を望む。空の青さが際立つ

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イボール・センターイボール市街地。
土曜日のせいか閉まっている店が目立った。

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レンガ造りの町並み。歴史市街地に指定されている。


 というような訳で(カミングアウト)今回のツアーは一日延びて10泊11日。
メジャーやマイナー、観光そして感動の10日間でした。楽しかった~ァ!!


 最後に、紀行内容の一部訂正とお詫び、それに補足をします。


 先ずは訂正し、お詫びする箇所です。
(1)7月24日(金)紀行ー1で、ダン・アイアソーニア審判は平林岳氏の後輩と紹介しましたが、後輩ではなく同期の桜です。
 先日、平林氏に会った折『ダンは審判学校の同期で、一番成績が良かった』と確認しました。
 ダンは3Aに6年間所属し、2004年にメジャーへ昇格して翌年、ALDSの審判に抜擢。2006年にはJapan All-Starシリーズで来日。



(2)7月28日(火)紀行ー5で、R.J.トンプソンとMike.エスタブルックは来年のスプリング・トレーニングに招聘されたと記述しましたが、 R.J.トンプソン氏は残念ながら解雇されたようです(平林氏からの情報で)3Aの在籍期間が長すぎたようです・・・。

 実力だけでメジャーに上がるのは困難といえる一つの例です。実力と共に運も必要な世界(審判だけでなく選手も同じですヨ)
 ついでながら、先日平林氏と会った際、シラキュースで会ったマイクからのサインボールを受け取りました。

 感謝感激。目に涙???来年こそ必ずメジャー・スタッフになって欲しいと祈念。


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笑顔も魅力的だったマイク。来季はメジャー間違いなし。
左は店のデニス嬢。でも既婚ですよ。

写真
#83 Mike Estabrook のサインボール


(1)7月30日(木)紀行ー7で『Pan American航空』の創業地を紹介しましたが、7月25日(土)紀行ー2の掲載写真中の『クライスラー・ビル』の前に写る『Met Lifeビル』が元パンナムのニューヨーク本社ビルです。
 地球を模った中にPAN AMと入ったロゴが懐かしいで~す。


写真
パークAve.グランド・セントラルの北側にある。
元PAN AMの本社ビル(現在はMet Life Building)


(2)7月31日(金)紀行ー7で知ったかぶり(?)をして説明した
 『The Boys of Summer』を歌っているドン・ヘンリーは小生と同世代ですネン。1970年代にヒットしたイーグルスの『Hotel California』は全世界を圧巻しましたネ。ドンはそのドラマーで歌い手でもありました。


(3)7月31日(金)紀行ー7の『カンサスシティー・ロイヤルズは今季も最下位?』は的中しちゃいましたァ。喜んで良いやら悪いのやら??。
 所属する中部地区の覇者ミネソタ・ツインズに21.5ゲームも離され最下位。今季の成績は65勝97敗。勝率.401で終わりました。
 しかし、ザック・グレンキー投手が16勝、防御率2.16で今年のサイ・ヤング賞に選ばれました。うれしいニュースもあるのです。おめでとう!



 今年はヤンキースがフィリーズを4勝2敗で下し9年ぶり27回目の優勝を飾り、松井選手は打率.615、3本塁打、8打点の大活躍でMVPに輝きました。快挙です。おそらく東洋人として最初で最後の受賞かも知れません・・・。
 打率.615はワールドシリーズ史上第三位の記録。
 そして第6戦で挙げた一試合6打点はシリーズのタイ記録。


 現在、各チームはGMを中心に来季へのチーム創りが水面下で(GM間の情報交換が盛んに行われている)始まっています。
 今季でヤンキースとの契約が切れる松井選手の去就はいかに・・・?
 松井選手とジェラルディ監督の考え方に差があるのは否めない。



 この紀行文は一ファンとして、そして一アンパイアーとしてメジャーを観戦、堪能、感動し、感じたままを記述してきました。
 久しぶりに長編の文章作りに挑戦しました。
 もっともっといろんなことを書きたいのは山々ですが、これが最終回です。
 ここまでお付き合いしていただいた野球好きの(??)読者の皆様、本当に有難うございました。


 来シーズンも数多くの熱戦や感動が期待されます。機会があれば、またその空気を吸いに行きたいと思っています。
 そして、大好きなアンパイアー活動も大いにスキルを上げて技術を磨き、微力ながら野球に貢献していきたいと願っています。
 こんなすばらしい野球を皆様も大いに楽しんでください。
 イヤ、一緒に楽しみましょう!
 やるのも良し、観るのも良しそして裁くのも良しで~す(完)

 Join in and Have more fun! See you again.
                From M.B.U.A Umpire #47 K.O

※文中、氏名の敬称は略しました。ご了解願います。



(2009年12月15日)


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