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被災地への日帰りボランティアに参加して
(上)


白 球 男 児  


 3月11日午後2時46分、三陸沖を震源とする地震が発生、マグニチュード8・8(その後9・0に訂正)で、宮城県栗原町で震度7を記録し、東北・関東を中心に未曾有の被害をもたらすことになった。

 過去に経験したことのない約3分間にも及ぶ、大きく揺れ動いた地震に遭遇した人たちは、生きた心地がしなかったというのが、率直な気持ちではなかっただろうか。

 地震の規模としては、これまでに世界で起きた地震災害の中で、大きさでは4番目の記録となる巨大地震であったことを、後刻知ることになる。 

 この地震によって日本の太平洋沿岸全域で大津波が発生し、多くの建物と逃げ遅れた人々が犠牲となった。

 そして、福島第1原発では、津波による事故を拭き起こし、放射能漏れの大事故につながることに至った。

 地震・津波・原発のトリプル事故により、地震発生直後からテレビ放送全局で、一斉に現地からの生々しい映像が連日連夜にわたり放映され続けることになる。

目を疑うような惨憺たる惨状は、この世の出来ごととは思えず、流れてくる映像を呆然と眺めていたことが思い出される。

 大地震発生から間もなく80日が経過しようとしているが、国・県・民間のあらゆる機関で復興に向けた必死の取り組みが為されているところである。

 今回の大震災では、国内はもとより世界各国から多くの人的・物的支援が寄せられているが、その後も国内を中心に、大震災発生直後からボランティア活動の輪が広がり、現在に至っている。

 私も現地に出かけて、何らかの手助けが出来ないかと大地震直後から考えてはいたが、災害の規模が大き過ぎてどの地を訪ねれば良いのか、また高齢者のボランティアではかえって邪魔になるのではないかとも考え、悶々としながら時間だけが過ぎ去って行った。

 そのような時に、私の住んでいる市の社会福祉協議会主催による「東日本大震災・日帰り津波被災地応援ボランティア募集!」の回覧に接し、ボランティア活動が出来る機会を得るに至った。

 行く先は福島県いわき市小名浜で、ボランティアの内容は、床下や側溝の泥出しと清掃、及びがれきの撤去作業などである。

 募集は16日から開始され、先着順で受け付けるとのことで、幸いにも年齢制限などがなかったので、募集開始日に申し込みを行い、待望のボランティア参加が決定した。

 募集要項では、出発日は5月20日・募集人員35名、23日・17名、24日・17名の3日間で、募集人員の一番多い20日を選んで申し込みを行った。

 持参品として個人が最低限準備するものとして、底の厚い長靴、軍手とゴム手袋を数枚ずつ、マスク、帽子、タオル、当日の昼食、飲料水、カッパ、保険証のコピー、筆記用具、着替え、履き替え用の靴、大きめのビニール袋、角スコップ等々であったが、長靴を始めとしてほとんどの品を新しく準備して当日を待った。

 5月20日・・・ボランティア出発の日がやって来た。

 様々な準備品を車に積み込み、集合場所である市の福祉保健センターに、午前7時の集合時間10分前に到着。

 7時から社会福祉協議会の主催者挨拶に続いて、市長の挨拶などがあり、市の大型バスに引率者2名と参加者40人が乗り込んで、地元を慌ただしく出発した。

 20日の募集人員は当初35名であったが、参加希望者が多く特別に5名を増員し、計40名の参加者になったとの説明が為された。

 市の福祉センターを出発し、谷和原から常磐高速道に入り、一路福島を目指す。8時30分、中郷SAにてトイレ休憩。9時を過ぎた頃に福島県内で高速道を降り、一般道に入ったところから道路の凹凸が酷くなり、徐行運転を余儀なくされるが、道路のでこぼこ道は、地震による陥没や歪みの影響であることに疑いの余地はなかった。

 高速道の走行中に山間から見え隠れする村落の屋根は瓦が飛び、ビニールシートが掛っている家もチラホラ見えたが、福島県内に入るとその数はグンと増し、改めて地震の凄さが感じられた。


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 午前9時20分に小名浜地区災害ボランティアセンターに到着。

 センターの担当者から当日の作業内容と注意事項などを聞いた後、作業現場に向かうことになるが、参加者40名の内、20名が床下の泥出し作業、15名が思い出の品探しの調査、残りの5名が草取り作業という割当てとなり、私は泥出し作業に従事することになり、作業場所は海岸沿いの永崎地区の民家ということに決まった。

 野球活動でグラウンド状態が悪い時には、グラウンド整備のために水や土を相手に、悪戦苦闘することが多いが、ボランティアでの泥との闘いは初めての経験であり、何れにしても体力勝負であることに疑う余地はなかった。

 市のバスで作業現場へ向かうが、海岸に近付くに従って風景が一変、岸壁から道路を挟んで立ち並ぶ民家や新・旧のアパート群が、防波堤を超えて押し寄せた2メートルにも及ぶ津波のために、一階部分は軒並み波に洗われた形で住めなくなった状況が一目で分かる。(海面からでは約5メートルの波が押し寄せたことになる)

 漁業組合や土産物屋さんなどが海岸沿いに幾つも建っていたが、営業しているところは皆無の状態で、先々の生活の不安を抱えて呆然と佇む人の姿を散見することができた。

 作業をする民家は、本業は漁師さんだと思われるが、奥さんが店番としてタバコや飲料水などを商う小さな店であるが、店舗と住まいを併せるとかなりの広さであった。

 この日の作業は泥出しということであったが、正しくは海岸から津波によって民家に流れ込んだ砂をかき出す作業で、床下に約10センチの量の砂が一面に詰まっていた。

 作業開始は10時半、この日の福島地方は気温が30度を超えると予想されていたが、防塵マスクを口に当て、20人が一斉にスコップ片手に作業を開始したが、作業を始めた10分後には頭と体内から汗が噴き出していた。

 床下作業は水に浸かった畳を取り除いた後に床板を剥がし、その床板を支える桟があるが、この桟が狭い間隔で縦に並んでいるために、角スコップが上手く使えずに作業が難航、慣れない作業も手伝って急速に体力だけが消耗し、足腰が痛くなり「この調子では一日持たないぞ」と、一瞬ボランティア参加に後悔の念が走る。

 しかし、時間の経過とともに作業にも少しずつ慣れて、作業を進める要領も分かり、作業開始直後の弱気から、急速にやりがいが出てくることに気持ちの変化がみられた。

 作業開始40分後の午前11時過ぎに、第1回目の休憩時間となる。

 休憩を挟んで作業が再開され、12時に午前中の作業を終了、待望の昼食時間を迎える。

(つづく)


(2011年6月1日)


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