派遣審判員の歴史と今後の展望と役割 審判用マスク
甲斐 雄之助

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 この話を始めるについて、まずどのように野球審判を経験してきたか話すことにします。私が野球審判の世界にはいったのは1966年からで、今年を終わると45年が過ぎたことになります。審判人生最後の日々を大切に頑張っている今日この頃です。

この「審判」が自分の生涯の「伴侶」となってしまうとは思ってもいませんでした。

振り返れば、審判人生の始まりは職場や少年野球の審判員から始まりました。そして全日本軟式野球連盟所属の地区組織審判員となり、審判員としての教育と講習会参加及び技術指導員の指導などで身につけました。

この当時は講習を受け受講カードへの指導講師の認印の数が増えるのが同僚への優越感みたいなものがあったようです。

パターン化した動作の繰り返しで、記憶に残っているのはミスをして怒られたことくらいでそれほど鮮烈な思い出がありません。

転機が来たのは1975年、各連盟組織には属さず、広く各種団体及び個人からの審判依頼に応じ、審判活動を行う組織から誘いを受けました。体験審判を行い、その活動実態に興味を覚えのめり込んでいきました。

これが連盟組織に知られ、怒られ、気がついたら除名になっていました。

これによって私の決心は固まりました、その理由は連盟では感じなかった審判活動の多様性とゲーム対応人員の多様性です。

そのことによるアンパイアリングテクニックの追求への魅力がそこにあます。これに真剣に取り組んでみたい気持ちが強かったからだと思います。

その後、この集まりは新しく協会組織として発足し私も加入しました。
活動範囲は各種団体が催す大会、リーグ戦及び個々の審判。社会人、学生及び青少年の審判、軟式・準硬式・硬式試合の全てです。言い換えれば審判依頼を受ける範囲はプロ及び各種連盟に関わる試合を除く全ての層からの依頼となります。

依頼内容の審判員構成は一人制・二人制・三人制・四人制と多様であります。また個々のチームからの審判依頼は一人制が圧倒的に多く、審判技術の多様性とこれに関する技術の習得、特に一人制は不可能性に対する可能性の追求という努力目標が伴います。以上が活動の実態であります。

次にこの審判活動の中から経験の思い出とその実態例を述べます。

硬式野球ではアメリカの少年野球シニアリーグと連携した少年野球リーグが発足した時、日米対戦までの審判を担当して少年野球の世界を体験しました。

高校野球の練習試合、大学野球の練習試合、大学と社会人(ノンプロ)との練習試合の審判も行いました。

そして、準硬式野球では大学及び社会人の準硬式リーグの審判を担当しました。それぞれの層の野球の実態とレベルを知ることにより、この経験がゲームへの対応能力を養う上において大きな糧となりました。

我々のメインは軟式野球の審判です。これは多くの人に親しみ易い野球であります。目的の多様性及び幅広いレベル層への対処などを後に触れるつもりです。

今回は、私には貴重な経験であり、忘れ難い思い出を述べさせていただきます。

一つは、これは3公社・5現業が国の機構であった時代です。電電・専売・国鉄・自衛隊・県庁・市役所などの「全国官公庁軟式野球大会」の審判を担当したときの体験です。

天皇杯へ出るチームもありました。軟式野球では最高レベルの大会の一つでもあります。このレベルのゲームへの対応経験はその後の審判活動の糧となりました。おまけに自治大臣から感謝状までもらったのも懐かしい思い出です。

もう一つ挙げると、「全国官公庁大会」の決勝戦で天皇杯優勝経験チーム同士が戦った試合です。野球の芸術といったプレーの流れに乗って球審を担当し、この境地で審判の経験をしたことも忘れがたい思い出です。

これは番外の思い出ですが、先日、逝去された元日本ハムの大澤監督が率いるプレミアムモルツ軍団が東京ドームで四万の観衆のなかでおこなったゲームの審判を担当したことです。

試合は両チームが元プロ野球選手であり、プロレベルの試合の審判を行うことができたことは得難い経験でした。今回はここまでとします。

(つづく)

(2010年11月1日)


「派遣審判員の歴史と今後の展望と役割」という表題で、甲斐雄之助氏に原稿を依頼しました。
 審判組織にはそれぞれの歴史があります。我々の派遣審判団体にも歴史があると以前から思っておりました。
甲斐雄之助氏が体験した貴重な体験から多くのことを学び、今後の審判活動をより良いものにしていきたいと思います。連載を期待いたします。

臼井淳一


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