派遣審判員の歴史と今後の展望と役割 審判用マスク
甲斐 雄之助

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 今回は1990年代に於ける私共の審判活動について述べます。

 この時代の日本は戦後復興期に続く社会・経済の発展がピークに達し、実態経済と名目経済の格差を修復出来ないさまざまな要因が重なり、いわゆるバブル経済の崩壊による社会・経済の混乱とこれに掛かる修正期間にあたり、私共を取り巻く社会環境と生活実態が大きく変化した時代でした。

 経営の合理化、整理統合及びグローバル化など企業の生き残り競争のなかで、スポーツ界の状況も変化することは必然の成り行きでした。

 広告宣伝搭としてのスポーツ部の廃部、福利厚生事業としてのスポーツ行事の減少及び各種大会等のスポーツイベントの中止は、野球ゲームの愛好者に新しい楽しみ方やイベントの持ち方を生み出して行きました。

 このことは私共が活動する野球審判においてもその影響を受けました。バブル経済崩壊後、企業及び団体が行ってきたハイレベルの格種大会が徐々に無くなくなりました。

 特に健康保険組合のスポーツ行事となっていた野球大会の減少・休止などにより、三人制・二人制など複数審判制のゲームが以前とは対照的に減少して行ったのは社会情勢の変化を伴う時代の推移に拠るものでありました。

 このような社会情勢のなかで、90年代後半には野球愛好者が自分達で仲間を集い、勿論このような楽しみ方は従来から存在しましたが、野球を楽しむ試みが活発化し、やがて次の2000年代でインターネットを媒体とした対戦相手の選択や私設リーグ・ネット大会の設立へと発展して行くことになります。

 この時代での特記事項としては、80年代には盛んに行われた早朝野球が殆ど行われなくなったことです。これも先にのべた社会情勢の変化が地域コミュニティー活動へ影響し、早朝野球を楽しむ余裕がなくなったものと思われます。

 ナイトゲームは定着していましたが、社会情勢の厳しさが影響してウィークデーは減少して推移しました。

 この時代の状況の実態を検証すれば、先にのべたように諸種の大会が年々減少し、これに伴い複数審判制が減り、一人制審判は暫増する状況で、80年代とは対照的な状態となり、一人制審判への要請が高まり、この要請に応えるためにも一人制審判のメカニック確立は重要な課題でありました。

 この年代の審判技術の習得はどのようであったかについてのべます。80年代の野球審判教室及びアメリカの審判学校経験者により目標を定めた同審判学校で教える審判技術の習得を深めるために各地の仲間が交流を計り、共通の目標を共有できたことであります。

 ジム・エバンス審判学校フルコースへは毎年、各地から入校者があり、この中からマイナーリーグの審判員を目指し、これを経験したのち帰国後、審判技術の普及に尽力する人達も現れました。

 ジム・エバンス審判学校との関係は深まり、エバンス校長の来日講習会が催され、またスリA審判員のデミューロ兄弟の来日講習会も催され、審判技術習得への共通認識は確かなものとなりました。

 この共通認識の基幹となったものはすでに述べてきたアメリカの審判学校から持ち帰った基本と二人制審判のメカニックであります。二人制審判のメカニックの習得が日常の審判活動にどのような役割を持つものであるかについての考えを述べます。

 複数審判制では三人制・四人制審判のメカニックへのバリエーションの基幹となっており、それぞれのメカニックにおいて担当パーツと連携パーツが加わったものであることが、それぞれのメカニックマニュアルを参照すれば理解できます。

 次回は一人制審判へのバリエーションについて述べます。

(2011年4月1日)


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