【1】私の宝物
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 私が最初に私設リーグに関わったのは1976年ごろだと思います。何しろこのころの「資料」は写真の「功労賞」しかありません。これをさかのぼって思い出しながら書いていきます。

 職場が平日休みで、職場の野球チーム・「チャート」は試合相手が見つからず、練習ばかりやっていました。何とか平日の試合相手がいないかと考えました。

 そこで渋谷区・狛江市の「広報」を利用して「水曜日に野球の試合をしてくださいー」と載せました。やっと応えてくれました相手が「アートネェーチャー」というカツラのチームです。

 余談ですがこのチームに、お名前は忘れましたが「元ロッテ投手」が投げましたが、私共のバットには「かすり」もしませんでした。

 ついでにもう一つ余談です。「維神会」というチームに、やはりお名前を忘れましたが「元阪神選手」が、多摩川河川敷・渋谷グランドで、なんとレフトの「綱」を越えて、はるか遠いい隣のピッチャーマウンドを越えて3塁ベース付近まで飛ばしたことを覚えています。この記録は現在も同グランドで審判をやっていますが破られていないと思います。

こんな余談を紹介しますとレベルが高いリーグに思えますが、野球初心者が多く、どちらかと言いますと「楽しむ野球」のレベルでした。

 その後「広報」で集まったチームは「渋谷・第一園芸」「狛江・学習塾」「狛江・トヨタ販売」でした。まずは1年目は「オープン戦」を行い2年目より正式にリーグを発足させました。

 リーグ名は「ダイナミックリーグ」と命名いたしました。私はリーグの事務局長をやらされてしまいました。チームの監督兼選手それにリーグ事務局。と、「二足のわらじ」を履くことになってしまいました。数年後には審判までやらされて「三足のわらじ」を引きずるように履くことになってしまいました。


 先日、サタデーリーグの会議を一日かけてやると発表しましたら、「2時間ぐらいにしてくれ」という意見をいただきました。

 この頃はインターネットという便利なものがなく、リーグの会議は毎月1回。開会式・表彰式も全チームがグランドに集まり行いました。やはり「顔」を見て話し合うということはとても大切なことだと思います。サタデーリーグの年一回の会議に時間をかけるのも有意義なことではないでしょうか。

 話を戻します。事務局の仕事は「会議場の取得」、「グランドの取得」と、休みの日、仕事の合間をぬって市民センター、区民センターへと毎週のように足を運びました。今、考えて見ますと野球をやりたい一心からできたのではないかと思います。
 
 写真の「功労賞」はリーグの事務局を永年やってきた「証=あかし」です。この「金のブロンズ?」トロフィーはアートネェーチャー・チーム監督の井田勝久氏が中心となって各チームに呼びかけ私に贈られたものです。私の宝物です。

 サタデーリーグからはまだ何もいただいておりません(笑)
 つづく

(これを読まれた方で、このころの正確な情報がありましたら臼井まで知らせてください)


(2005年1月15日)


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