巨人ファンにはたくさんの友人がいる |
巨人ファンの積極的なコミニュケーション、発信行動によって、巨人は現実の姿よりも、いっそう大きな虚像となってプロ野球ファンの間を闊歩している。他球団ファンはその姿に恐れおののくばかりである。しかし、それを支える巨人ファンの多弁・雄弁が功を奏するためにはある条件が必要である。いうまでもなく、それは話を聞いてくれる相手の存在である。語り手の向こうには聞き手がいなくては話にならない。 ところが、案の定、巨人ファンの友人関係は極めて豊かで相手に事欠かないのである。 「調査」で「友人の多さ」について質問した(回答項目は「多い」「やや多い」「普通」「やや少ない」「少ない」の五段階である)。 全体では、 「多い」10% 「やや多い」25% 計35% 巨人ファンは、 「多い」19% 「やや多い」33% 計52% 他球団ファンは、 「多い」3% 「やや多い」23% 計26% であった。
その事実と巨人ファンの多弁・雄弁性とは切り離せない。巨人ファンは子ども時代から、同じ対象に対して心をひとつに出来る巨人ファンの中で育った。それはもっとも心を許し、安心して話しあえる親や兄弟であった。そのことが彼らを多弁・雄弁に育てた。加えて、多数派に属する安心感と自信で次々と友人に働きかけてきた。 しかし、巨人ファンが自認する友人の多さは、自分の発信行動の受けとめ先であって、他球団ファンがイメージする「友人」とは意味が食い違っていることも考えられる。他球団ファンより兄弟姉妹の少ない環境で育った巨人ファンは、家庭内で大切に育てられただけに、やや自己中心的な傾向があるからである。 そうした傾向は果たして巨人ファンの全人格的な諸側面において現れる共通項なのだろうか。「巨人ファン型人間」とでもいうべき類型的な人物像をスケッチすることは可能なのか。 次号以下で「巨人ファンの社会的態度」を分析しながら、そのテーマに迫っていくことにしたい。 (「損保のなかま」2003年5月1日号より転載) |