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 ■23…少数派モデルとしての他球団ファン
   感性派巨人ファン対理性派他球団ファン

 終章(まとめ)完

 他球団のファンは巨人ファンに比較して遅い時期、いわば理性がより豊かに成長する時期に葛藤を経ながらファンになる。そしてそれは巨人に対する「嫌い」という感情を伴っている。 すなわち他球団ファンであることは同時に「アンチ巨人」であることが多い。しかしながら、他球団ファンは支持球団に対する支持の固さにおいて巨人ファンに劣る。理性の導きでアンチ

阪神フィーバーはプロ野球ファン地図を変えるだろうか?
巨人になった他球団ファンは、感性豊かな巨人ファンとは違った支持の形をとる。声高な多数派「巨人ファン」の前で少数派を意識しながら沈黙する(昨年の阪神の例をもってこの全体的類型を否定するのはまだデータ不足である)。

 一元化された家庭で育ってきた巨人ファンに比較して、兄弟姉妹が多く、多様化・多元化の家庭で育った他球団ファンは、野球よりむしろサッカーが好きであったり、球団への肩入れも半身の構えであり、一部を除いては熱烈さにおいても巨人ファンに劣る。

 プロ野球の現在の秩序に関して、巨人ファンには他球団ファンとは明らかに異なった反応が見られる。プロ野球界をより公正・平等な土俵に戻そうという意見に対する巨人ファンのホンネが認知不協和を惹き起こしている。巨人ファンはプロ野球の世界を決して純粋なスポーツの世界として見ているわけではない。プロ野球を現実世界の土壌に咲いた花として捉えることで認知不協和を解消する。そう仮説することによって、巨人ファンが人生に対する態度、社会に対する態度などにおいて実利的・現実的・満足的であるという傾向も結果も説明できる。巨人ファンは、理想に拘泥せず、着実に自らの足で現実という大地を踏みしめている。

 しかし、これはあくまで社会的態度特性に関する仮説である。態度は、パーソナリティの表層に近いところに位置している。態度という従属変数は、微量の独立変数を加えることによってさまざまに、そして微妙に変化する。「調査」はそれらについて論じるだけのデータを十分に保持しているわけではない。巨人ファンがなぜそうであるのかについては、「調査」とその考察によって、貴重なヒントを得ることは出来たが、まだまだ奥は深そうである。機会があればさらに研究を進めてみたい。(完)

(「損保のなかま」2004年2月1日号より転載)


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