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私が青年のころ、たいへん、たいへんお世話になりました伯母夫婦を「小林多喜二の宿」神奈川県・厚木・福元館に招待しました。 今回は、福元館の女将さんからもじっくりお話を聞くことができました。 「こんな高いところから、本当に失礼します。小林多喜二さんのお話をさせていただきます…」女将さんはひざの具合が悪いので、椅子に腰掛けて、一言一言、丁寧にお話をしてくれました。 「3年前までには、この宿に小林多喜二さんが投宿していたことが、世間様にわからなかったのは、亡き義父から絶対に公表してはいけない…。やはり、ああいうむごい亡くなり方をした人なので、義父も恐かったのではないでしょうか。それでいて、偉い作家先生が投宿した離れ屋を残すように…と強くいわれました」。 「今になって全国から宿泊者がきていただくのは、祖先の言い伝えを守ったからではないでしょうか」と女将さんは複雑な表情で話しはじめました。 「3年前に蠣崎(かきざき)澄子さんから電話があった時には、あぁ。とうとう見つかってしまったか…、蠣崎さんとお会いしたら、とてもやさしそうな人なので、全部お話してしまおうと観念しました」。 「そのあとがたいへんでした。新聞には載るし、全国から先生といわれる方々、多喜二さんのファンがたくさんみえられて。あらためてご立派に方だったとわかった次第でございます…これといった歓迎もできませんが、多喜二さんが大好きだった、おはぎを皆様に召し上がっていただいております」。 実はこの日、蠣崎澄子さんとお会いしたくて、手紙を出しました。
蠣崎さんにお目にかかり、こんな質問しました。 「小林多喜二の足跡を追っている方が大勢いるのに、どうしてこの宿のことがわかったのですか?」 蠣崎さんはメガネをかけた、とても物静かな女性で、多喜二の好きだったブラームスのCDを流してくれました。そして、こんなお話をしてくれました。 「文学教室に通っているうちに、小林多喜二のことを知り、ある本のなかに、多喜二が七沢温泉に投宿と書かれてあるのを見つけ、地元ですので、全部の旅館に電話して確認するつもりでいました。それが、2軒目で分かったのです。ラッキーでした。福元館の女将さんも心を開いてくれました」。 「多喜二は北海道・小樽は別にして、同じところに一週間もいないのですよ。福元館さんには1カ月もいたのです。お世話をしてくれました関係者の方々は、まだ全部は分かっていませんが、当時の人は命がけだったのではないでしょうか」。 「小林多喜二を今の若い人たちに、ぜひ知っていただきたい。なぜ30才そこそこで死をも覚悟して、小説を書きつづけたのか…。現在の日本をこの時代に絶対に戻してはいけません。有事法制、イラク法案と、日本が戦争に巻きこまれる危険な状態ですね…」。 「福元館さんにきていただくことが、多喜二の離れ屋の保存にもつながると思うのですよ…。いま、いろいろやらねばならないことを考えています」。 余談ですが、蠣崎さんのお母様と私の母とは、友達であったことがわかりました。 食事をしながらですが、お二人のお話を聞いて、伯母夫婦とともに感動しました。 「親孝行 親が亡くても 親孝行 仏放っておけ」…(不精者) (2003年7月15日) |
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