(26)「生麦村」のお祭りは平和の証(あかし) 最終回 |
|
今年も8月5日に故郷・横浜・生麦村のお祭りに行ってきました。伯父さん、伯母さん、兄弟、従弟たちと楽しい、楽しい会話をしてきました。
東京湾で獲れた穴子のてんぷらをたらふく頂きました。伯母さんの揚げたてんぷらは一流料理屋に出しても恥ずかしくないほど美味しいです。もちろん新鮮なお刺身が絶品でした。
横浜空襲が昭和20年5月29日、川崎空襲が昭和20年4月15日と、この日、意外にも横浜と川崎に数回にわたり空爆されております。 横浜側は現在の「生麦事件記念碑」付近まで焼夷弾が落ち、川崎側は鶴見商店街も焼けています。間に挟まった旧東海道の約600メートルの「生麦村」だけが奇跡的に焼け残ったのです。 米軍は横浜、川崎の工業地帯を中心に爆撃したと思われますが、そのど真ん中にある「生麦村」には焼夷弾が一発も落ちていないことは「奇跡」「偶然」という言葉では表現できません。 ただ一つだけ考えられることは、東京大空襲のように無差別爆撃をしなかったことです。それに川崎に捕虜収容所施設があり、米軍はこの位置を正確に把握しており空爆していません。「生麦村」と距離的には離れていませんので、空爆に手心を加えたのではないでしょうか。 今でも、生麦には戦前に建てたと思われる家がちらほら残っています。子どもの頃の記憶では、かわらぶき屋根の家が何軒もあったように思われます。 川崎空襲、横浜空襲は東京大空襲の10万人以上という死者に比べますと少ないです。それは人口密度の関係もありますが、京浜工業地帯を中心に爆撃したからです。また郊外はほとんど農村地帯という状況でした。それでも主要な街はほとんど焦土化されました。 わたしは3月10日の東京大空襲の時は、2才2ヵ月で祖母の実家である現・神奈川県港北区・新吉田町に疎開しておりました。かすかな記憶ですが、空が真っ赤だったことを覚えています。
だが、この日に備えて島に地下道を掘った日本軍の「抵抗」で組織的戦闘が1カ月に及び、その後ゲリラ的戦闘が3カ月も続きました。 これはあくまでわたしの予想ですが、硫黄島での日本軍の激しい抵抗が米軍の戦争終結作戦を変更したのではないでしょうか。なにしろ米軍海兵隊が最も苦しんだ作戦と言われる硫黄島攻略戦で戦死者6800人と負傷者を含むと約28000人もの大損害を出した戦いだったのです。 その後、一夜にして10万人の命を奪った東京大空襲と本土各地の民間人への無差別空爆がつづきます。そして広島、長崎への原爆投下で戦争が終結されます。それまでしなければ日本は降伏しないと、米軍は硫黄島の戦闘を教訓にしたのではないでしょうか。 戦争というものは軍部が頑張れば頑張るほど、そのしわ寄せが民間人へと来るのではないでしょうか。とくに負け戦(いくさ)ではそれが顕著に現れます。 今日、8月15日の終戦記念日です。勝ち戦でも負け戦でも戦争をはじめてはいけないと言うことは歴史的に証明されています。 「生麦村」のお祭りは平和の証(あかし)でした。
|
(2007年8月15日) |