愛犬 ハッピー物語

(3)亡きハッピーの思い出

作 臼井 淳一



 私たち四人と一匹が町田市に越してきましたのは、92年の夏のことです。この頃からハッピーは弱ってまいりました。90年には人間でいう、乳がんの手術をうけました。犬も人間と同じように足から弱ってきまして、眼、嗅覚、聴覚ともに衰えてきます。主婦の私のいうことを一番よくきくのは犬のハッピーです。その次に2人の子供たち。お父さんは一番わがままです。

 93年の秋の夕方、突然ハッピーが行方不明になりました。お父さんは「動物は死期が近づくと自分から出ていくのだ」なんて冷たいことを言います。私は隣接する市や町の保健所に電話をかけまくりました。そして1週間後に、なんと日野市の保健所に保護されていることが分かりました。

 保健所の暗い犬舎の中でハッピーと対面し、「ハッピー、ハッピー」と声をかけたら、反応が鈍いのに思わず涙が出てしまいました。保護された場所は自宅から30キロも離れた所だったそうです。歩くのにもおぼつかない足なのに、交通事故にも合わずに30キロもよく歩いたと思います。

 家に帰り元気を取り戻し、お正月には体を洗い、恒例になっております。お正月の元旦だけハッピーを居間に入れてあげます。ハッピーもとても喜びました。

 その年の3月12日の朝、お父さんが,玄関にいつものように寝ているハッピーを見て「ハッピーがおかしいぞ。みんな来い」裕子も健太もハッピーの体をさわり「まだ、温かい。亡くなったばかりだ」。みるみるうちに冷たくなり、硬直も始まりました。ハッピーの最後を家族みんなで見てやることができました。私はハッピーの目をそっと閉じてあげました。

 今朝、6時ごろ「ハッピーおはよう」と声をかけましたら、首だけ少し曲げて私の顔を見たのが、お別れだったのかもしれません

 その日の夜、祐子も健太も会社から早く帰り、犬ネコ火葬場で荼毘にした話を聞きました。突然、無口な健太が「骨は持ってこなかったの、永年一緒にいたのに。お父さんは冷たいよ」と言いました。
 お父さんは、コップに残っていたビールをグイとのみほし、黙って二階に上がってしまいました。

 健太の一言で、ハッピーと私たちは、家族以上に結ばれていたことがあらためてわかりました。

 ハッピーとの17年間の生活は、ちょうど子供達の難しい成長の過程でもありました。小さいころ、ハッピーの散歩を良くしてくれた二人ですが、中学生からしなくなりました。それでもハッピーが病気になると、子供達はとても心配してくれました。家族に共通の話題があるということはとても良いことだと思いました。

 動物を飼うということは、家族の一員だと思わなくてはいけません。飼うからには最後まできちんと面倒をみてやる義務があると思います。わが家では、亡くなったハッピーの写真が居間や、子供達の部屋に今でも飾られております。

 ハッピーの写真を見るたびに、今でも、楽しかった17年間の思い出にひたることができます。本当に、ハッピーありがとう。

(完)

[2000年1月] 

人間に例えると百歳近いハッピー



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