むかし、むかし、おいらが小さい頃のお話です。おいらの住んでいる町は、鶴見川という川が、海に流れ込むところにある生麦という町です。
おいらの町では、ほとんどの犬は、クサリにつながれていませんでした。だからときどき保健所の野犬捕獲員(おいらたちは「犬殺し」と言っていました)犬殺しは、針金を輪のようにして、後ろにかくして、犬に近づき、犬の首をめがけて、針金を投げるのです。そして、すばやく車の犬舎に釣り上げるようにして放り込むのです。犬舎に入れられた犬たちは、針金で首をしめられたショックから、猫のようにおとなしくなってしまい、数匹もせまい犬舎にいるのに喧嘩もしませんでした。
飼い主が1週間以内に罰金を払えば、戻してくれますが、1週間を過ぎると毒飯を与えられて殺されてしまいます。
おいらの家の犬も、犬殺しに捕まってしまいました。親たちは「犬殺しに捕まるようでは役に立たない」と言って、保健所へ貰い下げに行ってくれませんでした。おいらもとても悲しかったが、なんとなく納得するしかありませんでした。
おいらの町内のボス犬は、米屋のハッピーというオス犬で、秋田犬とセパートの雑種犬です。なんといっても、町内の犬では喧嘩が一番強く、歩き方が堂々としていて、「犬殺し」が来ても、こそこそと逃げず、一定の距離をおいて、犬殺したちを睨(にら)みつけるのです。犬殺しの人も、ハッピーは捕まえようとはしませんでした。ハッピーは大人たちからも、おいらたちからも「尊犬」されていました。
そんなハッピーがある日、おいらたちの見ている前で、犬殺しに捕まってしまいました。
それは八百屋のルミーというメス犬が、犬殺しに取り囲まれてしまい、そこへ、ハッピーが猛然と突っ込んで来ました。そのとき1本の針金がハッピーの首にかかりました。ハッピーは針金を食いちぎる勢いで、犬殺しに襲いかかりました。もう一本の針金もハッピーの首にかかりました。あっという間に3本もの針金が、ハッピーの首にかかりました。ルミーはもうその場にはいませんでした。
ハッピーはおとなしくなり、3人の大人たちに抱えられるようにして、車の犬舎に入れられてしまいました。
おいらたちは、すぐに米屋に知らせにいきました。米屋のおじさんも、一瞬、顔を引きつらせましたが「しょうがねえ、かわいそうだけど…」
おいらたちは「おじさん!ちがうんだよ。ハッピーはルミーを……」と、一生懸命に話しましたが、おじさんは取り合ってくれませんでした。
おいらたちはションボリして、鶴見川に向かいました。そして河原の石をみんなで、黙って投げました。そのとき、おいらの目から涙がぽろぽろ落ちて、おいらの顔は石を投げるたびに、涙が飛び、川風に吹かれ、鼻水と一緒に顔がぐちゃぐちゃになってきました。
おいらのたちの、一番年上のなかまが、突然「ハッピー・カンバックー」と言って石を投げました。おいらも真ねをして「ハッピ−!カンバックー」。みんなで「ハッピー・カンバックー」をくりかえしながら石を投げました。
おいらは小さいので「ハッピー」も「カンバック」も英語の意味が分かりませんでした。だけど、おいらはそのとき、心に誓いました。おいらが大人になって犬を飼うときは、名前は絶対に「ハッピーだ」これだけはゆずらない、と。
(終わり)