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鶴見川の遊歩道を歩いていると思わぬ出来事に遭遇することがある。遭遇などとは大げさなことたが、暇をもてあましている修平に遭遇ははるかかなたの出来事なのです。 こんな書き始めが「小説さ」のはじまりです。そもそも題名がなぜ「小説さ」になったのでしょうか。実はいつもの事ながら誤字がはじまりです。きちんとした題名をつけようと思いましたが「小説さ」がなんとなくピタリとはまったと勝手に思いました。 そんなわけでまずは「修平の遭遇」から始まり、結末と途中の経過などは全く未知の世界となるのです。出たとこ勝負で物語は紆余曲折的に進むと思います。 「おそれいりますが、この遊歩道は下流どこで終わっているのでしょうか」と、突然質問をしてきたのは50歳〜70歳と見られる女性でした。修平に女性の年齢を見る眼がまったくないのです。ただなんとなく40歳代ではないということだけです。 そもそも独身の修平も自分の年齢を65歳だと認識するのは、仕方なく年に何回かの役所からの書類に返信するとき65歳だと分かる意外ないのです。 「下流ですか。このあたりは上流に近いので、下流は東京湾に流れ込むのではないですか」 「修平の遭遇」はここから始まるのです。 翌日はあいにくの雨のため、修平は鶴見川をいろいろ調べてみました。
流域の人々は,江戸時代から生活や命をおびやかされてきた。洪水のたびに家や田畑が冠水し,橋や堤防も流された。命と暮らしを守るため,村人たちが力を合わせて堤防を築けば,それは対岸や上流の村々との対立の原因となった。 時代が進んで,昭和33年9月にも大洪水に見舞われた。神奈川新聞によると「狩野川台風は鶴見川を氾濫させ,アッという間に田畑冠水,沿岸民家は屋根まで没する。駒岡・末吉.佃野・市場下町・菅沢・栄町通りが最もひどく,床上浸水2,700戸,このうち家のひさしまで没したのが数百戸」とある。 このように,鶴見川は水害と治水工事,流域では村民の抗争の繰り返しであった。 暴れ川といわれる反面,川は豊かな恵みをもたらしてきた。川の流れが緩やかなため,大正時代の末ごろまでは舟運が盛んで,川筋はかなりにぎわったといわれる。 末吉・矢向辺りには赤レンガの製造工場があり,当時は建築材料としてかなりの需要があったため,重いレンガを舟で運んだ。また農村地帯には糞尿が肥料船で運ばれたり,木材の運搬も行われ,下流には製材工場が建設されて,たいへん活況を呈した。 この当時の鶴見川は,今と違って水もきれいで,昭和のはじめごろまでは,子どもたちの格好の水遊び場であった。
これは何としても、あの女性の質問に応えるために下流の遊歩道を歩こうと決心するのである。 修平はもともと思い込みが激しいのである。あの女性といつ会えるかなどとはまったく考えないのである。(つづく) |
(2010年7月15日) |