(7)横丁の思い出 |
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「うらめしい花火」 巴 清
花月園遊園地が競輪場になったのは清が小学校1年生の時でした。さだかな記憶ではありませんが、競輪場の工事が始まっても園内は無料で遊べるところがありました。狸やサルの動物もいたことを覚えています。 有料のお化け屋敷や滑り台、それに人口の池に貸しボート屋さんがありました。なにしろ大正3年に造られた当時東洋一の遊園地でした。今、考えますと解体作業にも年月がかかったのではないでしょうか。 競輪が本格的に始まりますと、こどもは出入り禁止となりました。仕方がなく使用されなくなった溜め池にこどもが集まり始めました。清たちは水が汚いので「ブタ池」と呼んでいました。 工藤君はザリガニを捕りにブタ池に入り、釘を足に刺して、破傷風菌が全身に回り2日で亡くなってしまいました。 昭和25年代はこどもが病気やケガで亡くなることが多かったです。その原因は今のように良い薬がなかったからです。また、気管支の弱いこどもは京浜工業地帯が急速に発展するために空気が悪くなり、転地療養するこどもが1クラスに一人ぐらいいました。公害病の始まりの時代だと思います。 冬になりますと、早朝に町の中はオレンジ色に染まります。一見幻想的に見えますが、24時間操業している工場から出る煙が、朝の冷たい空気に触れ、オレンジ色になり町中を覆うのです。日光が出てきますとオレンジ色になった煙が茶色になり空へと上がって行きます。 鶴見川や運河で釣ったハゼは臭くて食べられませんでした。不思議なことに上げ潮になりますと、商売の青柳加工のために海水を汲みに行かされました。海に近い河口なので一時的に海水がきれいになったのではないでしょうか。 また、大きな亀が河原に来ますと、お酒を一升飲ませてあげ、その家の屋号を背中に書き入れ川に戻していました。 50年前は汚い町でしたが、最近は空気もきれいになり、住みやすくなった下町です。何故なのかこどもの姿が見えません。特に赤ちゃんを全く見かけないのです。 平日に町の中を歩いていても、お年寄りしか見かけません。家並みは50年前と変わりませんが、ところどころにぽっかり空き地ができ駐車場がやたら目につきます。原因はお年寄りが亡くなりますと、家族は戻らず駐車場にするそうです。 清も18歳でこの町を出ました。東京の会社への通勤は1時間でしたが、なんとなく東京砂漠に身も心も埋もれることに魅力を感じてきました。 (2007年12月1日)
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