(8)横丁の思い出 |
|
先日、千葉県・簡保の宿・勝浦に1泊しまして、勝浦の朝市に行って参りました。あまりの寒さに車の中にカメラを忘れて写真を撮ることができませんでした。
2百メートルぐらいの狭い路地の両側一杯にいろいろなお店が並んでいました。テントを張った本格的な魚屋さんから、小さなコザの上におばあさんがチョコンと座り、お餅を並べだけのお店。海の幸から山の幸まで楽しませていただきました。 朝市といえば、巴清の自宅から5分も歩けば旧東海道沿いに、魚河岸通り・生鮮魚貝類の朝市がたちました。ほとんどが寿司ネタでした。清のこどもの頃には朝市の魚などは口に入ることはめったにありませんでした。 昭和25年頃は、国道駅まで両側にビッシリ生鮮魚貝類のお店がありました。昭和30年代に入りますと少しずつお店が無くなっていきました。 やはり京浜工業地帯の発展とともに、埋め立て工事が進められ、魚介類が取れなくなりました。と同時に漁業で生計を立てられなくなり、補償金を元手に転職する人が近所にもいました。 朝市は今でも続けられていますが、ほとんどの生鮮魚貝類は三浦半島、その他の漁港から運ばれたものです。朝市のノウハウは今でも引き継がれ、一般の人にも気軽に美味しい魚介類を買うことができます。
小母さんはニコヨン・失業対策事業で働いていました。なぜニコヨンというのか、一日働いて百円札2枚と十円玉4個しかもらえなかったからです。後に清の母親もニコヨンで働くようになりました。 清より3才年上の修ちゃんという子がいました。修ちゃんはとても頭がよく、NHKラジオ作文コンクールで表彰され、放送されたことがありました。修ちゃんはこんな詩を書いていました。
夕方、 これは全くの偶然ですが、清が小学校5年生の担任の先生と、修ちゃんが6年生の時の担任の先生が同じでした。ですから清が3年生の時に、修ちゃん宅へ家庭訪問をするこの先生と顔を合わせていました。 修ちゃんは「大きくなったらお父さん、お母さんを幸せにするのだ」と口ぐせのように言っていました。 果たして修ちゃんは両親を幸せにすることができたのでしょうか。 ここまで書いて1月1日は修ちゃんのことを書こうかと思いましたが、九州の友人から「早くテレビを見て」と携帯へ連絡がありました。 (2007年12月15日)
|
|