横丁の思い出 横丁の思い出


(9)横丁の思い出
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 ♪一寸前から憶えちゃいるが
 ♪一年前だとチト判らねェなあ
 ♪髪の長い女だって ここにゃ沢山いるからねェ
 ♪ワルイなぁ 他をあたってくれよ
 ♪・ ・ ・ アンタ あの娘の何なのさ
 ♪〈港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ〉

 ご存知、作詞家・阿木燿子さんは、巴清と同じ小学校出身で3才年下であることが、12月11日の友人からの電話が切掛けで分りました。

「今、テレビで貴方の母校が阿木燿子さんに紹介されているよ」。

 急いでテレビを付けた時にはもう終わりの方でしたが、たしかに阿木燿子さんが当時の町の様子を語っていました。

 伯父に電話して聞いてみますと、阿木燿子さんがこどもの頃、住まわれていた家も清の家から500メートルぐらいしか離れていないことも分かりました。

 阿木燿子さんと巴清は、昭和25年〜40年代の京浜工業地帯の汚れた街の空気を吸った仲間だったのです。

 隣の駄菓子屋さんのおじさんが先生で、小学校の朝礼では、元軍人であった為に気合の入った号令をかけていました。この号令も一緒に聞いたのではないでしょうか。

 阿木燿子さんと小学校のどこかであっていると思います。なにしろ2千人以上いた生徒数だったので近所の子しか名前は覚えられませんでした。

 ♪一寸前から憶えちゃいるが…で始まるこの歌を聴いた時、清は全く違和感がありませんでした。

 ♪・ ・ ・ アンタ あの娘の何なのさ…中学時代は日常会話で使っていました。

 あんたやっぱり生麦娘ですか…と思わず阿木燿子さんに伝えたくなりました。

 阿木燿子さんに刺激を受けまして、詩を作ってみました。

  あんた昭和のなんなのさ

        作詞 巴 清  曲 内定 歌い手 内定

1、戦後の昭和は 親子が顔を寄せ合い暮らしました
  昭和25年代 食べるのに無我夢中で働きました
  汚染たれ流し だれも気にかけませんでした
  そのツケが やってくるのを知らないで
  CO2 CO2 世界の空が曇っていく
  あんた昭和のなんなのさ

2、戦後の昭和は こどもたちはよく遊びよく働きました
  昭和30年代 成金がボツボツ出てきました
  煙突からの煙 黒い雪が町に降ってきました
  そのツケが ゴホンゴホンとやって来ました
  CO2 CO2 世界の空が曇っていく
  あんた昭和のなんなのさ

3、戦後の昭和は 汗水たらして皆で働きました
  昭和40年代 若者は町から出て行きました
  そして今 昭和ブームと言われています
  団塊の世代が 平成へと放り出されました
  CO2 CO2 世界の空が曇っていく
  あんた昭和のなんなのさ



 さて、赤堀修ちゃんのことです。偶然に鶴見駅のホームでお母さんと逢いました。このころ清は、念願の鶴見線の上りで東京へ通勤していました。

 鶴見線の下りは工場地帯へ通う男ばっかりの満員の車両でした。上りはガラガラで女性通勤者も多くいました。清は就職するなら上り線だと決めていました。

「あら、清坊。元気。ネクタイなんかしてどこの会社に通っているの」
「修ちゃんは、今どこで働いているのですか」
「うーん。大工さんやっているの。来年に家を建ててくれるのよ」

 小母さんはとても幸せそうな顔でした。朝の通勤時間帯なので、小母さんとはこれだけしか会話ができませんでした。


(2008年1月1日)


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