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今年78歳になる伯母・宮喜美子が書いたものを事実に反しない程度に脚色してみました。 父の実家は古くからの網元で屋号を「玉屋」といいます。明治、大正、昭和の始め頃までは横浜港・河口一帯で漁船の貸し出しや花火等を取り仕切っていました。父は「玉屋」の次男坊として生まれました。 昭和16年太平洋戦争の開戦と同時に、使用人の若い衆たちが次々と徴兵で戦場に行き、人出不足となり「玉屋」は廃業の状態に追い込まれました。それでも家作収入が多くありましたので生活には困りませんでした。 使用人の「出征兵士祝い」は広い「玉屋」の大広間で盛大に行なわれました。これは「お国のため」を思う祖父の気持ちと生き甲斐でもありました。 私も自宅から近いので、多くの使用人の「出征兵士祝い」には一種のお祭り気分で参加しました。祖父母の「玉屋」には入り浸りになりました。 ある日、使用人の「松たん」にも「赤紙」(召集令状)が来ました。「松たん」は私たち子どもと時々遊んでくれるので私は大好きでした。
「松たん」は東北の出身で、小学校を出てすぐ「玉屋」で働き、給金はもとより、「銭湯に」と渡される風呂代も井戸端で身体を洗ってすませ、東北の実家に送金していました。 27歳の春に祖父の世話で所帯を持ちました。そして翌年の夏には丸々と太った可愛い赤ちゃんが生まれました。名前は金太郎ちゃんといいます。そんな矢先の「赤紙」でした。 祖父も「松は働き者だ、居なくなった本当に困る」と落胆していました。「松たん」の出征兵士祝いは、祖父はふんぱつして、祝い膳を仕度して誰よりも盛大に行ないました。 戦闘帽に日の丸・たすき掛けの「松たん」は晴れがましく、私の眼にはことのほか輝いて見えました。 「ばんざい・万歳」の歓声の中で、生後1カ月の赤ちゃんを抱いた奥さんが、控えめに小旗を振っている姿が私は今でも印象に残っています。 半年も経ったある夏の日でした。私の自宅の玄関に人影を見えました。 母はあわてて「松太郎さんご立派におなりになって」と言葉使いも改まってしまいました。私はもう帰れたのかと思い嬉しくなりました。だが、1泊2日の一時帰宅でした。 母も私も奥さんが一緒でないことに疑問を持ちました。松太郎さんに聞きますと「あいにく風邪をこじらせて床に伏している」とのことでした。 2日後に突然に私の自宅に憲兵が荒々しくやって来て、父母に松太郎さんの事情を詰問していました。 あの日、松太郎さんは夕刻に横須賀の兵舎に帰る予定でした。だが、奥さんが突然に心臓発作で倒れてしまいました。泣きじゃくる子どもに後ろ髪を引かれる思いで父親として兵舎に帰る予定を十数時間遅らせました。 ちゃんとした理由があるのにもかかわらず「脱走兵」として軍事裁判にかけられてしまいました。そして1週間後にはなんと銃殺刑の判決でした。 一生懸命働き普通の幸せを望んだ28歳の若者の命は、たった十数時間の遅れで運命を狂わせてしまいました。私は子ども心に憤りを感じました。 当時「松たん」の事件は禁句となりました。肩を落として元気がなくなる祖父の後姿を見て、私は悲しくて、悲しくてしかたがありませんでした。 その後、松太郎さんの奥さんは心労が重なり亡くなられました。金太郎ちゃんは東北の親戚に引き取られていきました。
「松たん」がこの事を天国で聞いたらこんなことをポツリと言うでしょう。 「みんなに迷惑かけたけど、どうしようもなかったのだ。息子の金太郎の孫は可愛いね。天国でそっと見ているよ」 松たん!『戦争はいや!』と言ってあげてよ。松たん! |
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