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高田渡を知っている方は少ないと思います。が、知っている方は「伝説のフォークシンガー高田渡」、また、泉谷しげる氏は「渡は国宝だ 渋茶だ 今に枯れてしまうぞ」と言わしめたのです。だが本当に5年前に56歳の若さで亡くなってしまいました。 なぜ高田渡のことを取り上げるのか不思議に思う方がおられますので少し説明させていただきます。 今年2月にNHK教育テレビで放映されました「こだわり人物伝 高田渡 第1回〜4回」この放映を偶然に観まして高田渡を想いだしたのです。 高田渡とわたしとの出会いは、彼が15歳で入社して、同じ職場で一緒に働いたのです。たしか、東京オリンピック(1964)の年の入社です。「金の卵」と言われました中卒入社の最後の社員だったと思います。 わたしは高田渡とは6歳年上でそれほど親しくした覚えがありません。また何年在職していたかも記憶にないのです。 その頃のわたしは3人の仲間と借家で共同自炊生活をしておりました。ある晩、彼がわたし達の借家に遊びに来ました。晩飯のすき焼きを四人でつついていると、彼は急に泣き出しました。 「こんな小さな茶碗でご飯を食べるのは、母ちゃんが生きているとき……」 わたし達3人はオロオロしてしまい。 いま思えば彼は母親を8歳でなくしているのです。わたしはその時、なんて感受性が強い子だなぁと思いました。 それ以来、彼は「1カ月一回のすき焼会」をそれとなく察知して遊びに来るようになりました。またそのころ共同自炊仲間のフーさんがギターを持っていたので、彼はフーさんと一緒にギターをいじくりまわしていました。 なんせまだ15歳の子どもです。3人とも弟が一人増えたと思い、度重なる訪問にも快く歓待いたしました。 また彼は入社してすぐに病院通いが始まりました。何人かの元同僚に彼の印象を聞きますと「毎日の病院通いしか覚えていない」「仕事は午後からしかやらなかった」「半年ぐらいで退社したのでは」中には「影が薄かったのでまったく知らない」等々です。 いま想うと彼はかなり重い「蓄膿症」を患っていたのではないでしょうか。会話をしていても鼻が詰まったような低い声で「あの…それで…分からないので…」と相手がいらいらしてしまうのです。 彼はこのころから「蓄膿症」を治さないとフォークシンガーになれないと思っていたかも知れません。 彼と親しくしていた元同僚に聞いた話ですが「2年半ぐらい在職していて、その間、盲腸を含めすべての病気を治してしまった」との事です。「会社には病気を治すために入ったようなものだ」とも言っておりました。 このころは残業が多く彼はとても嫌がりました。こんなことを仲間によく頼んだそうです。 頼まれた方は外から電話するのにはお金がかかるので、内線電話を利用するのです。これを受けた上司も全く気がつかず許してしまうのです。 ある日、調子に乗って上司の後ろから電話してしまい、会話をしているうちに上司が後ろを振り向いたのです。二人とも大目玉を食らってしまいました。まぁこのころはどこの会社ものんびりしていたのです。 退社してからしばらくして「自衛隊に入ろう」という歌で有名になりました。だが、わたし達も「青春時代」の真っただ中であれこれやることが多く、高田渡のことは自然に忘れてしまいました。 話しは前後しますが、退職後はバイトをしながら定時制高校に通い、本格的なフォークシンガーの道を歩んでいたことが分かったのです。 「こだわり人物伝 高田渡」を観まして46年前の「忘れている人」のことを想い出してしまいました。 もう少し早く高田渡のことを知っていましたら彼に会いたかったです。彼のライブも観に行ったでしょう。わたしとしたことが「うかつ」でした。 「タカダワタル的ゼロ」DVDを購入しましたので、友人のフーさんと「高田渡を偲び」一杯やりながら鑑賞する予定です。 |
(2010年2月15日) |
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もちろんその後は盛大な酒盛りになるでしょう。なにしろ近所には猿と狼しかいない僻地なので…一晩でも二晩でも騒げるのです。 (2010年3月1日) |
《資料》 ★「こだわり人物伝 高田渡 全4回放送」放送局:NHK教育 |