思うがまま…II

臼井淳一
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(18)能力・才能は誰にでもあります

 こんな表題で書くことはとてもこそばゆいです。わたしは能力・才能とは縁がない人生を歩んできました。はっきり申し上げまして50歳までは才能ではなく「本能のおもむくまま」生きて参りました。

 50歳を過ぎてからこれではいけないと気づいたわけではありません。最大の理由は人と接する機会が極端に多くなったことです。50歳から現場から営業への配置換えがわたしの「能力・才能」を開花させるきっかけを作ってくれました。


さくひんてん
孫の幼稚園のさくひんてん。能力・才能がいっぱいです

 さらに60歳の定年後は365日・24時間「首都圏野球審判協会・会長」という肩書きを思う存分発揮しまして、「臼井会長のページ」にあることないことを書きまくっています。

 まったく野球・審判と関係ないことを書くので、気を悪くしている方もいると思います。実はそこが狙いなのです。能力・才能は関係のないところからも開花してくるのです。

 能力・才能の開花の時期はおのおの違います。天才少年から始まり80歳から開花する人までおります。

 ここまで読んで「あれっ。この人は能力・才能があると公言している。変な人」と思う人がいると思います。もともと能力・才能がある人は変な人が多いいのです。

 新人の方に審判をやってもらいました。その感想をA審判とB審判に聞きました。
「あの新人はどうですか?」
A審判「ぜんぜん、ダメダメ」
B審判「声も大きいし、これからが楽しみ」

A審判は理論家です。人を見る能力がまだありません。
B審判は実践派です。人を見る能力があります。


野球
本文とは関係がありません

 頭でっかちの理論家よりも実践派の方の方が、生きていくうえでの能力・才能が優れていると思います。頭でっかちの理論家は厄介ですが、根は意外と単純なところがあります。

「豚もおだてれば木に登る」と言いますが、能力・才能の開花も同じようなものです。まちがっても「ぜんぜん、ダメダメ」と決め付けたり、考えたりしないことです。

 そうは申しても現実の社会では「ダメ烙印」を押されたりしまったり、他の人に「ダメ烙印」を押してしまうことがあります。

 人生は捨てたものではありません。ひょんなことから、ひょんな方向に行きます。「烙印」を押されたら、反発してもいいでしょう。しばらくじっとしていてもいいでしょう。各々好きなように生きるのが一番です。

 わたしの能力・才能などはたいしたものではありません。しかし能力・才能があったのだという発見もできたのです。

 能力・才能は誰にでもあります。かならず開花いたします。

 2011年も残りは16日となりました。政府は3月11日の大震災の復興のために能力・才能をフルに発揮して、被災地をほったらかしにしないで欲しいです。また、寝た子を起こすような原発の再稼動は止めてください。

 DPPだかDDTだかしりませんが、衣・食・住さらには医療までもがアメリカ資本の元に「いいなり」にされようとしています。

 ちなみにDDTとは戦争直後の衛生状況の悪い時代、アメリカ軍がシラミなどの防疫対策として、日本のこどもたちの頭髪に粉状薬剤を浴びせた農薬です。歴史は繰り返すとはよく言ったものです。また農薬を浴びせられそうです。

 おっと話が「能力・才能は誰にでもあります」が飛んでしまいました。何としても2012年は皆様の能力・才能を発揮していただき、日本の復興のために知恵を出し合えたいものです。

 今年、最後の「おもうがまま…」に偉そうなことを書きました。これも能力・才能のおかげです。


(2011年12月15日)



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