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「えーいま、わたしは隠居で身分でございまして」という言葉をここ数十年、聞いたことがありません。「隠居」などという言葉は、もはや落語の世界にしか「住めない」のでしょうか。
定年退職された方も「隠居」という言葉は使いません。何故なのでしょうか。そもそも隠居というのは、元気な内にすべてを子供たちへ引き継がせて、残された人生を自由に生きるという意味もあるのではないでしょうか。 隠居人の条件は「元気なこと」、「引き継ぐ財産があること」、「面倒見てくれる家族がいること」、「小金をもっていること」、「得意技があること」。 現代の世の中にこんな条件を満たす「隠居人」そうそうはおりません。 隠居人の代表選手は、池波正太郎・剣客商売の「秋山小兵衛」。また、白石一朗・十時半睡事件帖の「十時半睡」を思い浮かびます。 この2人の隠居人に共通することは「世の中のお役」に立っていることです。 さて、ここからが「隠居人研究」の本題に入ります。 隠居人の条件はいろいろとありますが、大切なことは「世の中のお役に立つ」ことなのです。「ご近所のお役」でもいいのです。 わたしの子どものころには「お役に立つ人」隠居人が、町内に必ずおりました。お祭りの時などには若い衆の先頭に立ち「木遣り」を唄い。日常生活では夫婦喧嘩の仲裁。親から殴られる子供への仲裁。若い人の喧嘩の仲裁。それはそれは見事に裁いておりました。 子どもがお年寄りを尊敬する「当たり前の環境」が、わたしの子どものころはあったのです。 わたしは10才台までは電車の中では座りませんでした。20才台では目上の人に席を譲りました。30才台ではお年寄りに席を譲りました。だからといいまして、今60才台になりまして「席を譲ってほしい」とは思いません。 新宿始発小田原行きに、われ先に座席をとろうとする若者の姿を見ていますと、怒りよりも悲しくなります。お年寄りの目の前で「タヌキ寝入り」しているサラリーマンはぶん殴ってやりたくなります。 「今の若者はだらしがない。昔は軍隊があったからよかった」などとトンチンカンなことをいう政治家がたまにいますがそれは違います。 そうそう隠居人の研究でした。現代の社会には隠居人が住みにくくなってきたのは事実です。また、隠居人が遠慮して「居候」になってきたことも残念です。 わたしには「野球審判」という得意技があります。これを多いに利用して、世の為・人の為のご隠居を目指します。 もちろんご近所でも「お役に立つ」ことを見つけ出して「町内のご隠居さん」も悪くはないと思います。 ご隠居は「天下国家」にも「口だし」をしなくては行けません。わたしと同県の「小泉の純ちゃん」にも遠慮なく小言、大言、愚痴をがんがんいうつもりです。 隠居人ほど楽しいものはありません。なにしろ死ぬまで「お役に立てる」からです。「ご隠居人研究」はこれで終わり。 前回の「歌詞もよかった」というメールにおだてられて。 「ご隠居小唄」 作詞・臼井淳一 作曲・金光敏博 歌い手・募集 (1) えー 隣のご隠居が言ってたぜ えー それでは おあとが よろしいようで 隠居人は「粋」でなくてはいけません…(おだてにはのりません)。 これで本当に終わりです。 |
(2004年2月15日) |
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