【最終回】

工藤君の死

作 臼井 淳一  



  「日本のこころ」―5年生― (5年生の作文と詩)

 「おはか」     田子 勝靭

だんだんをのぼっていったら
むこうのほうから
せんこうのけむりが
上のほうにのぼっていた。
もうだれか来たんだなと思った。
ちかよってみたら
もう、せんこうが4分の1ぐらいしか
なかった。
せんこうをだして
手をあわせておじぎした。
工藤君が
雲の上のほうで
「ありがとう。」といっているような
気がした。


 テレビで巨人の工藤投手の顔をアップで見ていたら、ふっと小学校5年生の同級生だった工藤君が生きていたらあんな顔になっていたのではないかと思い出してしまいました。

 夏休みが終わり、始業式に工藤君が松葉杖をついて学校にやって来ました。工藤君は5年生まで1日も学校を休んだことがないのです。足には包帯がぐるぐるまかれていました。
 先生が「工藤どうした」と聞きましたら、工藤君が「たいしたことないよ。ほら、片足でソフトボールだってできるよ」と元気に片方の松葉杖を振って応えていました。

 その日の夜中に工藤君は亡くなりました。病名は「破傷風」です。原因は、私達もよく遊んだ「ぶた池」で、足に釘を通して、破傷風菌が全身にまわってしまったのです。現在のように良い薬があれば死にいたらなかったと思います。工藤君は一人っ子で、お母さんがお葬式でとても悲しんでいました。

 先生は「花月園競輪場ができる前は、動物園だった。こどもの遊び場だったのだ。工藤の家からも近いし……みんな、大人になっても工藤の死を忘れるな」といいました。この言葉はいまでも覚えています。

 「日本のこころ」−5年生−に、「工藤君の死」について、田子君と私の詩が載っております。なぜ先生が工藤君の「死」を二編も載せたのでしょうか。先生はとても悲しかったのではないでしょうか。

 工藤君の死にさいしては、クラス全員が、葬儀はもちろん、各自の自覚でお墓参りにもいきました。そして、工藤君の死によりクラスが自然にまとまりました。勉強ができる生徒ができない生徒に教えるとか、掃除は男子が重いバケツで水を汲み、女子は細かいガラスの端を拭くとか、「思いやりの気持ち」をクラス全員が学びました。また、男女混合のソフトボールも、先生がみんなの意見を聞き、それを実現してくれました。いま、思い出してもとても楽しいクラスでした。

 60名近い生徒を抱えて、先生は大変ご苦労をされたと思います。特に「作文」や「詩」に力を入れられ、どんな「作品」でも誉めてくださいました。また、私みたいな勉強のできない生徒にも、分かるまで根気よく教えてくださいました。

 小沢先生は、ご健在ならば75才―80才だと思います。いま、小学校に問い合わせ中です。ご健在ならば必ずお会いしたいと思います。

(おわり)

[2000年8月]