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ネットで発見

作 臼井 淳一  



 小沢先生は20年前に58歳の若さで亡くなっていることが分かりました。私は、がっかりして、何気なく「ヤフー」で「小沢勲」と検索してみました。「あっ、出ているではないか」。まさかネット上で先生とお会いできるとは思ってもいませんでした。その後、いろいろな経過がありましたが、小沢先生の友人であったという木俣様からお手紙をいただきました。その一部をご紹介させていただきます。

 「わたしは、かって小沢さんといっしょに神奈川県作文の会の研究や浸透のための運動をしてきたものです。小沢さんの急逝は、二人で支えてきた柱の一本がなくなってしまって途方にくれたことでした」。

 「臼井さんの文集を見せていただき、小沢さんがいたら、さぞかし涙して喜んだに違いありません。教育とは、教え教わるその時点で即決して判断することもさることながら、あなたのように、いつの日か、ふと過ぎこしを振り返り蓄積されたものが熟酵したところで教育を再認識できる、そんな場の持ち得る人の幸せをつくづく感じております」。

 「小沢さんは滅法野球狂で、とくに高校野球で、母校、鎌倉学園が甲子園出場を果たすと、日参した記憶が甦ります。こよなく野球を愛する万年青年でした。ですから臼井さんのような活躍の姿をみたら、これはもう堪らないでしょうね」。


 お手紙といっしょに、奈良教育大学「教育資料館」のサイトで紹介されていた『小沢 勲学級・文集 エントツ 横浜市生麦小学校五年五組 復刻1』(私の10年後輩にあたる五年五組の文集)が同封されていました。この本は、小沢先生亡き後、木俣さんが編集・出版されたものです。

 小沢先生のガリ版刷りの「エントツ」は私たちの時代からありました。エントツは生麦町のシンボルであると同時に、私たちのころは朝夕に、町の中にレンガ色したそのエントツの煙がおおいました。ほとんどの工場が24時間操業しておりましたので、地方からきた人はまず気管支が悪くなりました。私の年の離れた妹は喘息になり、それが原因で一家が生麦を離れることになりました。「エントツ」にはそんな思いも込められています。
  
 木俣さんのお手紙と『エントツ 復刻1』を読み終えて、目頭が熱く、熱くなってきました。「あぁ、20年前に先生とお会いすればよかった」。
 45年前の小学校5年生の時に、小沢先生に教えを受けた「1年間」でしたが、私の人生の中で、とても、とても大切なことを教わった“先生”でした。

(つづく)

[2000年9月]