小沢先生は20年前に58歳の若さで亡くなっていることが分かりました。私は、がっかりして、何気なく「ヤフー」で「小沢勲」と検索してみました。「あっ、出ているではないか」。まさかネット上で先生とお会いできるとは思ってもいませんでした。その後、いろいろな経過がありましたが、小沢先生の友人であったという木俣様からお手紙をいただきました。その一部をご紹介させていただきます。
お手紙といっしょに、奈良教育大学「教育資料館」のサイトで紹介されていた『小沢 勲学級・文集 エントツ 横浜市生麦小学校五年五組 復刻1』(私の10年後輩にあたる五年五組の文集)が同封されていました。この本は、小沢先生亡き後、木俣さんが編集・出版されたものです。
小沢先生のガリ版刷りの「エントツ」は私たちの時代からありました。エントツは生麦町のシンボルであると同時に、私たちのころは朝夕に、町の中にレンガ色したそのエントツの煙がおおいました。ほとんどの工場が24時間操業しておりましたので、地方からきた人はまず気管支が悪くなりました。私の年の離れた妹は喘息になり、それが原因で一家が生麦を離れることになりました。「エントツ」にはそんな思いも込められています。
木俣さんのお手紙と『エントツ 復刻1』を読み終えて、目頭が熱く、熱くなってきました。「あぁ、20年前に先生とお会いすればよかった」。
45年前の小学校5年生の時に、小沢先生に教えを受けた「1年間」でしたが、私の人生の中で、とても、とても大切なことを教わった“先生”でした。