木俣敏さんとお会いして、「小沢勲・学級文集 エントツ 復刻2」を自費出版することになりました。私の友人であります北原さん、金光さんが、「小沢先生の生き方」に共鳴して、「復刻2」の制作に、全面的に協力してくれることになりました。
木俣さんも「復刻2がこういうかたちで出せるとは思いませんでした。これで肩の荷がおりそうです」と言っておられました。また、木俣さんにとっては小沢先生は「心の許し合える友人であり、作文の会の先輩」でもあったそうです。私は、木俣さんのお話を伺っている中で、「小沢勲の人間的魅力」を一番知っている方だと感じました。
早速、北原さんと一緒に、私のふるさと「生麦」に、チラシを配布しながら、写真を撮りに行きました。
母校の生麦小学校では、校長先生、副校長先生が、突然の訪問にもかかわらず、チラシをみて、快く応対してくださいました。職員名簿で小沢先生を調べてくださり、「ずいぶん永く、小沢先生はいられたのですね」、「木俣先生は知っていますよ」。最後に「どうぞ、学校の写真は自由に撮ってください」と言ってくださいました。
ちょうど校庭では生徒が「運動会」の練習をやっている最中でした。私も母校の校庭に40年振りに立ちました。私の時代の運動会は、こんなに狭い所に、父兄も含めて4千人以上の人が集まったのかと思すますと、感慨無量でした。
また、生麦中学校でも責任の先生が快く応対して下さり、チラシを見て「45年前のことですか。私達まだ生まれていません。なにか協力させていただきます」と言って下さいました。
私の伯父の案内で「海辺」を見に行きました。昔は、漁船がびっしりあった海辺には、乗合の釣り舟がポツン、ポツンとあるだけです。朽ち果てた仕事小屋と海辺の貝殻だけが、ここで漁業の仕事をやっていた証しでした。
「神野」「内海」「川端」「巴」と同姓の家が、せまい道端に立ち並んでいました。わたしは、小沢先生がこれらの家をこまめに家庭訪問した昔を思い出しました。また、亡くなる5、6年前は、自転車で、せまい路地から路地を勝手口から家庭訪問したそうです。
300枚のチラシを配布しながら、午前11時から午後4時近くまで、よく歩きました。友人の北原さんも私も疲れました。が、とても心地よい疲れでした。
下記のアドレスは私の故郷、横浜市鶴見区のHPです。(生麦の写真もあります)
http://www.city.yokohama.jp/me/tsurumi/80/80phot/80phot0.html