作 臼井 淳一


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 (12)永遠の「ライバル」

 職場で「来年はなんの干支(えと)なんでしょうか」とみんなで騒いでいました。干支なんてわたしは、ほとんど知りませんし、興味もありません。

 「そうだ! 羊年だ。ということは臼井さん! 来年は年男だ!」。

 子供のころ、亡き母から「お前はひつじ年生まれだよ」といわれたことをはっきり覚えています。といいながら「昭和17年11月6日生まれだよ」といい続けていました。。

 あぁ。なんということか59年と10カ月目もの間「出生日」が「11月6日」と「1月6日」と二つもの出生日をもつ人間てした。それが会社での会話て゛「昭和17年11月6日」ではなく。戸籍標本どおり「昭和18年1月6日」だということが判明したのです。この60年近い年月。わたしは二つの出生日をもちつづけていたのです。よくも息子の生まれた月日を2カ月も、それも次年度にわたりごまかしたものです。年度が違っていましたら永遠の謎でした。

 干支に感心がなかったわたしにも責任がありますが、天国にいると思われる母に「懲役3年5ヶ月」の刑をいいわたします。
「ふーん。いまさらおそいよ。あんたが間抜けなんだよ」といわれそうですが。断固と刑をいいわたします。

 わたしの母は「飛んでいる女性」でした。夫・子どもに縛られない「自由」な生き方をした女性でした。母のいるところには必ず多くの「人」が集まりました。親戚などの「揉め事」解決には必要な人でした。
 子どものころ、母が世界で一番「美しい」人だと思っていました。

 わたしはこの人を「ライバル」だと思い。いつかこの人を抜く「生き方」をしたいと思っていました。
 この人にとっては、子どもの出生の2カ月〜3カ月はどうでもよかったのです。66歳で亡くなったが、もっともっと「自分本意の生き方」をしたかったのではないでしょうか。そう考えますとわたしには、まだまだ「母の生き方」を抜くことはできません。

 わたしにとって母は永遠の「ライバル」かも知れません。
 ライバルが存在していないのが、ちょっぴり寂しいが。

(2002年11月1日)



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