|
ファンは、おれが一本のホームランを右翼スタンドに打ち込む方が、三本の三塁打を左翼に打つより満足してくれる。 そうだな、あんたみたいにこつこつ当てていけば、打率六割は打てそうだ。だが、俺の給料はホームランを打つことで払われているんでね。(ベーブ・ルース) |
終身打率三割六分七厘。一シーズン四割の打率を記録した史上最高の安打製造機タイ・カップ選手に向かって言ったベーブ・ルースの言葉である。 「打率六割」とは大きく出たものだが、それはともかく、ベーブ・ルースは己に与えられた役割を正確に自覚し、信じて疑わない選手だったことを表している。
ホームランの魅力は、その飛距離だけにあるのではない。打った選手がベースを一周する間は、球場全体がゲームを中断してその選手に敬意を捧げる特別な時間となる。アウトかセーフか。ボールかストライクか。スリリングな「動」で構成される野球というゲームが、ホームランの瞬間、動的世界から神秘な「静」が支配する別世界へとワープする。この瞬間をファンに提供できるからこそ、ホームラン打者は尊敬され神格化される。 ベーブ・ルース七一四本。王貞治八六八本。まさに打ちも打ったりである。 さて、「一本のホームラン対三本の三塁打」「シーズンホームラン六十本対打率六割」。監督のホンネは果たしてどちらを選ぶだろうか。ほとんどの監督は後者だろう。もちろんケースバイケースで価値は異なってくるが、その方が勝利に貢献すると考えるのが常識的だからだ。 つまり、監督と選手、そしてファンの求めるものは明らかに食い違っていた…はずである。異なった目線でさまざまな野球を楽しめる。その多義性がたまらなく貴重だったのだ。 ところが、近年、ファンまでもが監督に課せられている勝利至上主義に同化しているように見える。単一の価値観、勝つことが正義という怖い世の中になった。強いばかりが武士じゃなく、勝つだけが野球ではないのに。 |
(「損保のなかま」2004年7月1日付より)
|