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 ■10…172キロ
   アメリカの「潔さ」文化を考えてみた


 もしあいつの投げるボールが見えたらバットを振って来い。なにも見えなかったら仕方ない。ベンチへ帰ってこい。
 
与田 剛投手
 ボブ・フェラー投手に向かっていく打者に与えたセネタースのバッキー・ハリス監督のアドバイス?だ。

 一九五○年頃に活躍した「火の玉投手」ボブ・フェラーの速球は百七十二キロ。スピードガンがなかった時代の球速をどのようにして計測したのか。それはフェラーのピッチングを撮影した映画のフィルムのコマ数から割り出すという方法をとったのだ。映画のフィルムは一秒間に二十四コマだから、投手の手からボールが離れてホームプレート上を通過するまで、フィルムが何コマ回ったかで計算できる。百七十二キロは一九四七年の記録である。

 ところで、中日時代の与田投手は百五十七キロを投げたが、空気が薄く乾燥したアメリカなら百七十二キロになるという計算がある(小岩利夫「力学野球プレーボール」時事通信社)。そういえば、日本ではせいぜい百四十キロしか出なかった長谷川投手(マリナーズ)もアメリカでは百五十キロを投げる。

 さて、日本のプロ野球なら「ボールが見えなかったらベンチへ帰って来い」などという監督はいないだろう。闘わずして敗北を認めるという文化はない。現中日の落合監督が現役時代、見逃し三振をすると、帰宅してから信子夫人の叱責が待っていたという。「バットを振らなきゃなにも起こらないじゃないの」というわけだ。

 日本の野球解説者の中に「ここは、どんな形でもいいから塁に出るべきですね」と、したり顔で「べき論」を展開する人がいる。出塁が保証されるのはヒットか四球か死球である。しかし、ヒットも四球も結果論であるとすれば、出塁義務を実行するために残された手段は「当たりにいく」ことしかない。自らデッドボールを受ける、特攻隊精神の発揮が求められているのだ。死んでも全体に尽くせ、見えなくてもバットくらい振ってこい、そんな日本的文化は、野球界に限らず脈々として企業社会の中で生き続けている。

 「敵は幾万ありとても」「撃ちてし止まん」という日本的精神に対して、百七十二キロの豪速球を投げる投手に敬意を表し、その才能に対してあっさり兜を脱ぐ潔さ。アメリカの「潔さ文化」はたしかにカッコよく見える。

 だが、ちょっと待っていただきたい。アメリカ的精神における、相手の尊重とは、その相手が自分よりも強力で、優れた能力を保持していることが前提なのだ。かならずしも弱者を含む全者が対象ではないことに留意する必要がある。
 強さこそは、アメリカ人にとって何よりも尊敬すべき、普遍的な価値なのである。

(「損保のなかま」2004年12月1日付より)


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