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「フォークやで。ちゃうやろ〜ケツの穴小さいわ。チ×ポコついてんのか〜」 だが、どんなボールを投げるかは、ひとえに投手サイドの権利だ。たとえ、相手が五百号ホームラン目前の大選手であろうが、からっきし打撃が下手糞な投手が打席に立っていようとも、それは同じことだ。投手が自分の予測どおりのボールを投げてくれるのであれば、打者にとってこんなオイシイ話はない。 かつて、日本ハム時代の江夏投手が、セーフティ・バントを試みた相手チームの打者に「きたないことをするな!」と一喝したことがある。江夏はセーフティ・バントを転がされることが大の苦手だったのだ。縮み上がったその選手は以後セーフティ・バントを試みる勇気を失い、すっかり江夏に翻弄されてしまった。 清原の要求も江夏の恫喝も、自己中心の勝手な(やくざ的といってもいい)論理に過ぎないが、これを武士道的美学ともてはやす傾向が日本球界やマスコミの一部に厳然と残っていることも事実だ。 清原や江夏の振る舞いの背景にはグランドの外にも広がる選手間の序列、番長と格下とでもいうべき前近代的な人間関係をタテ軸としたヒエラルキーがある。 大リーグにも似たようなことがないわけではない。たとえば、大差のついたゲームなど、走る必然性のない場面での盗塁は軽蔑され、記録上も盗塁と認められない。 この大リーグ文化は、一点でも多くとか、個人記録に拘泥する日本的感覚からすれば違和感を否めない。だが、こちらのコンセプトが「武士の情け」とすれば、武士道はむしろ大リーグで花咲いているというべきだろうか。 そういえば、元巨人のウォーレン・クロマティ氏が監督を務める米独立リーグ傘下の球団は選手全員が日本人。チーム名も「サムライ・ベアーズ」、サムライ・スピリットを売り物にして六月からのリーグ開幕に備えている。 「さらば、サムライ野球」(クロマティ著、講談社文庫)と、日本的武士道に決別宣言をした同氏が披露するアメリカ流サムライ文化が楽しみになってくる。 |
(「損保のなかま」2005年6月1日付より)
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