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(ドジャースの監督を二三年間つとめたウォルター・オルストン) 残りゲームがまだ二十以上もあるというのに、早々と広島・山本監督が辞意を表明した。つづいて九月半ばにはヤクルト・若松監督が辞表を提出、巨人・堀内監督も今季かぎり。来季、セ・リーグは少なくとも三人の新監督が誕生する。 監督という「中間職」は、球団の責任を一身に被るために存在している。それは日本も大リーグも変わりない。変わっているのは大リーグではオーナーが監督を「クビ」にするのに、日本では監督が「辞意」を伝えるという形式を踏むことだ。斬首より切腹を名誉とする、この陰湿な日本的システムのなかで、いつも球団トップの責任はあいまいにされ、真の「改革」は進まない。 監督さえ代えれば、すぐにでもチームが強くなると考える球団首脳部が多いのは日米共通、困ったものだ。 一九七七年のアトランタ・ブレーブスのオーナー、テッド・ターナー(名優ヘンリー・フォンダの娘で女優のジェーン・フォンダと結婚したマスコミ界の風雲児)も、まさにその困った一人だった。 彼は、チームの十六連敗に立腹して、デーブ・ブリストル監督のクビを切った。ここまではよくある話だ。だがそこから先がまさに空前にして絶後。なんとターナー自身がユニフォームを着て監督としてベンチに乗り込んできたのである。 この行動は一試合消化したところでコミッショナーから禁止された。ターナーの「監督歴」は連敗を十七に伸ばしただけで終った。わずか一ゲームだけだったが、監督業がそんなに生易しいものでないことだけは、たっぷり実感できたことだろう。 監督のクビは選手にとっても迷惑な場合が多い。一シーズンで七人の監督のもとでプレーするという珍記録を打ち立てた選手などはその象徴だろう。七七年のドック・エリス投手だ。 彼はシーズン当初ヤンキースでプレーした。監督はビリー・マーティンだった。シーズン中にトレードされたアスレティックスではジャック・マッキーン監督からボビー・ウィンクルズ監督の交代にぶっつかった。 さらにそのシーズン二度目の移籍で入団したレンジャーズでは一週間に四人の監督がクビ(!)という大騒動に巻き込まれた。七人のサムライならむ七人のボス。さぞや落ち着かない日々だったろう。 |
(「損保のなかま」2005年10月1日付より)
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