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第三章 生活綴方に生きて

(4)


●「作文と教育」(日本作文の会編集)百合出版 (一九六六年八月号)

 児童詩の研究

小 沢  勲    


 きんぎょのはか

      六年・田辺 保彦
       (神奈川県横浜市生麦小学校)

 グローブぐらいの山。         (1)
 エンピツほどのぼうきれ。
 そこに、               (3)
 「きんぎょのはか」と
 書いてある。             (5)

 目がぬれている。           (6)
 手がふるえている。
 はかを作っている。          (8)
 一年の女の子。
 おれは、               (10)
 新聞をおき、
 手つだってやった。          (12)
               (指導・小沢勲)


 ハリキル戸田さん

      六年・林   幸夫
       (神奈川県横浜市生麦小学校)

 「ポン。」とまりをうった。
 戸田さん、
 おしりをふりふり、
 ホワスト目がけて走っていく。
 戸田さんの顔、
 トマトみたいにまっか!
 戸田さんの顔、
 あせだらけ。
 戸田さんの顔、
 鏡のようにひかっている。
             (指導・小沢勲)

 五月二十三日、庭山景子が、漢字テストに、100点をとった。テスト用紙の裏に詩をかかせた。

  100点
(1)きょう一時間めに、
   漢字のテストをやった。
(3)きゅう食のとき、
   りえ子ちゃんが、
(5)うれしそうな顔をして、
   私のつくえの上に、
(7)テストの紙をおいた。
   100点と書いてあった。
(9)わたしは、
   うれしくてたまらない。

 ぼくと、彼女と、彼女をとりまく43名の友だちとの、力を結集し、次の作品にまで仕上げた。

  100点
 りえ子ちゃんが、
 えくぼへこませて、
 ニコニコしながら、
 私のつくえに、
 テストの紙をおいていった。
 「100点」
 太い字でギュウと書いてあった。
 生まれて初めての
 100点!

 ぼくには、(1)(2)の書き出しが、気になって気になって仕方ない。(3)の「きゅう食のとき」も、なくてはならぬことばでなどありはしない。(5)(10)の「うれしい」相手の物やこと、心のうちを見すえることなく、「うれしい」「美しい」などというコトバで、すませてしまうこと、これまた、絶対見すごすことはできない。
 児童詩を指導する以上、少なくとも、右のことがらについてだけは、神経質でなくてはなるまい。
 このたび、宿題を与えられ、いくつかの児童詩を読んでみた。胸にくる作品が少なかった。平板であり、低調である。
 児童詩に関心をもち、それを我がクラスの子どもに書かせてみる。もうそれだけで、ありがたいことである。しかし、「作文を書かせると大差ない心で、詩を書かせている」のでは、惜しい。もっ体ない。
 いろいろと、むつかしいリクツの多い「児童詩教育界」である。が、子どもの作品にぶつかった時、それをどう見るかの「目」だけは、確かなものにしていきたい。少なくとも、イロハの「イ」にめくらであっては、「児童詩の伝統」「子どもの詩」を育て上げてくださった先人に対し、申し訳がたたない。
 〈きんぎょのはか〉 保彦は、PTA副会長のひとりむす子である。
 おやじさんと職員室で話し合った。
「副会長ともあろう者が、よく新聞配達なんかやらせるなあ。ヤス(保)も偉いけど、おやじも変わってるなあ。」
「あいつ女らしくってなあ。『おとうさん、ぼく新聞配達やっていい?』って言うから、ヤッテミロって言ったんですよ。先生いいことすすめてくれたなあ。おれがヤスのころには、もう一人前の漁師だったよ。働くってのは、いい勉強になるからねえ。」
 たしかに、いい勉強になる。ヤスは、路地から路地を配り歩く。人の動き、人のコトバ、犬、花、雨、風、公園の雑草、さまざまなものことから、学び取る。それを、一日一日詩ノートに定着させていく。
 ヤスは、きのう、「きんぎょのはか」から、人の子の、美しい心のそよぎを感じ取った。それを、詩に表現することにより、人の心のやさしさを、からだの中にしみこませたのである。
 表現面で問題になる点。
1(9)(10)の間を行あけ、三連の構成にすべきであろう。
2新聞配達の道すがらだ、ということをわからせたい。(10)だけでは不十分。どうしたらよいか?
 〈ハリキル戸田さん〉 おやじは、舟を持たない漁師。おふくろは、シャコなどいれる箱作り。二男幸夫は、チビの短気者。が、日記は長い。一年と一か月。一日の休みもない。半年ほど、わけのわからぬことを書き続けた。先生におだてられ、おだてられ、続けた。子どもだ。素直なのだ。
 そんな幸夫が、ドイツ半紙半ペラをうまく使いこなして、この詩を書いた。「詩の教育」は、子どもを、ていねいな字の書き手、紙面の美しい使い手にまで成長させていく。また、そうした子でなくては、キリリとふくよかな詩など、生める道理がない。
 ぼくは推考させる時、けしゴム使用を禁止している。子どもの「推考する目」が、ゴムと共に消え去ってしまうからだ。
 顔も洗わず登校してきた五年生。六年生の今、読み返し読み返し、「音楽的」にまで、詩を高めようとしている。芸術家みたいな顔をしながら。






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