【その3】 人との出会いを大切に
その1、その2を書いてから1年を過ぎてしまいました。期待しておられた読者の方々には大変申し訳なく思っております。
さあ、その3からは本格的な審判人生と「巨人の星」が始まります。
息子とは小学2年からキャッチボールをはじめたのはいいが、息子がとてもいやがるのです。そこで私は一考を思いつきました。息子の投げるボールを私はわざと「速くて捕れない」とか「お前の投げるボールはお父さんでも打てない」とか一生懸命に持ち上げました。そして1年早く少年野球「ブラックメッツ」に入部させたのです。
高校野球まで10年間も、女房も一緒に応援につき合うとは思っておりませんでした。いまから思いますと私ができなかった「夢」を息子に託したのではないでしょうか。
私も息子の野球のお手伝い「審判」をやるようになり、同時に明治神宮審判協会の門をたたいて10年近く勉強をすることになりました。
私は息子に「野球をやるなら投手になれ」と教育し、小学低学年部でエースになり、狛江市の大会で3位になりました。その後リトルリーグで半年、シニアリーグで3年と、息子の投げる姿を多く見てきました。親孝行とは子どもが親に「夢」を与えることだとしみじみ思いました。
高校は二松学舎付属の野球部に入り、甲子園をめざしました。エースにはなれませんでしたが、3年生の夏、神宮球場でエースが打たれ、4回から救援投手に出てきました。私は八ミリカメラで撮っていましたが、手がふるえてどうしようもありませんでした。試合が勝ったときは、思わず「万歳」をしてしまいました。このとき父兄と飲んだビールの味は一生忘れません(親バカを書いて申し訳ありません)。
私は、息子の野球のお手伝い「審判」と同時に、休暇を使い、明治神宮審判協会で審判を1日3〜4試合おこない、年間200試合近い審判をおこないました。このときの体験が今、非常に役に立っております。なにしろ毎試合はじめて顔を合わすチームですから、なかには刺青をした選手がいたり、ホストクラブのチームだったり、はじめて野球をやるチームだったり、いろいろな試合の審判を体験いたしました。同時に珍プレーのルール解釈がとても勉強になりました。サタデーリーグにはありませんでしたが、走者が何故か塁上に2人いるとか、2アウトなのに守備側が戻り、それにつられて攻撃側が守備につくとか、3回までしか終了してないのに選手が勝手にボードに5回の裏表0−0と書いてしまったりとか、考えられない珍試合を体験いたしました。
野球の審判は私にとって最高のストレス解消になりました。と同時に私が持っている潜在能力を引き出してくれました。とくに選手との「出会い」はとても楽しく、また、はじめての球場に行くたびに胸がわくわくいたしました。おかげさまで東京近辺の地理には詳しくなりました。
私は人との「出会い」を大切にすることが、私自身のためになるのではないかと思っています。その「出会い」の延長線上にできましたのが「サタデーリーグ」でございます。役員の皆様はじめ、チーム監督、連絡責任者の方のご協力により、毎年のように輪が広がってまいりました。
昨年からは友人の金光さん(「みちばた」主幹)の協力によりサタデーリーグのHPを立ち上げることができました。関東近辺はもとより、大阪や熊本の人からもメールをいただき「出会い」が広がっております。野球リーグのHPとしては日本一ではないかと自画自賛しております。これからも「出会い」を大切にして生きていきたいと思います。
【その2】
むかし、むかし早朝野球をやっていた頃のお話です。プレーは6時です。最低でも5時に起きないと体調は整えられません。なにしろ三度の飯より、女房より野球が好きな連中の集まりが早朝野球です。(甲子園経験者、プロテスト不合格がごろごろいました)
車でグランドまで10分で行けますので、つい寝過ごしてしまいます。慌てて車を運転するものですから電柱にぶっつけたり、ガードレールにこすったり、新車が見る見る内に傷だらけになってしまいました。そんな中でいきなりプレーするのですから、危険といえば危険です。けれど危険より先にゲームに入ると、何故か「殺気」が先に来るのです。大の大人がセーフ、アウトで殴り合う寸前まで行くのです。考えてみればこの「殺気」が怪我予防に役立ったのではないでしょうか。
この早朝野球は30代までやりましたが、40代に入ると自慢の足が思うように前に行ってくれません。ライトで8番ですが、守備は甲子園経験者をうならせました。朝の太陽をグラブで隠し、忍者のように低い姿勢でボールを取ると、その瞬間「外野に来る球は全部俺が取る、二人は引っ込んでいろ」という気持ちになったものです。ファインプレーの「盾」は良くいただきました。野球は足です。特に外野手は足が反応しなくなったら終わりです。
人間引き際が大切です。長嶋や王のように格好良く引こうと思いましたが、焼き鳥やの2階で「みの」をたべながら「引退」を決意いたしました。
さてこれと平行して、息子との「巨人の星」の物語が始まります。小学校2年生から高校まで、息子とべったり、女房ともべったり、10年間も毎日曜日、応援と審判の手伝いが続きます。
【その1】
19××年1月6日生まれ。1月6日生まれについておもしろい話があります。小学6年生まで11月6日だと、今はなき母に言われていました。ところが戸籍抄本を見ると1月6日になっているではないか。母に問いただすと「私が産んだのだから間違いない」と突き放されました。
まあ、あまり気にせず今まで過ごしてきましたが、3年ほど前ひょとしたことから、私の叔母が「淳一の生まれた時はお正月の6日だ」と言い出した.隣にいた叔父も「そうだ、そうだ」と相槌を打つ.私にとってはいまさらどちらでもいいが、11月6日だと定年の時に12月のボーナスがもらえない。1月6日だと年休が20日も残って定年を迎えてしまう。どうせなら3月6日ぐらいにしてほしかった。そうすれば野球シーズンオフだし、年休も取れるし、ボーナスをいただき、年休で海外旅行にでも行けたのに。くやしーい。
生まれも育ちも横浜の下町、弱きをいじめ、強きと和合する典型的ないじめっ子.自分の子供が陰湿ないじめに会ったら、まずその家に行き、親の見ている前で団地のベランダから逆さにすれば一発で解決(実行したのは私の弟、いまでもその子に会うと顔が引きつっているとの事)
血液型はOK型。長女が生まれたとき女房が教えてくれました.最近の長女を見ているとあまりにも私に似て、いいかげん、大雑把、金銭感覚ゼロ、場当たり的、悪いところは親に似てしまったらしい。
趣味は野球ではなく、野球の審判。これは私のストレス解消に一番。選手の皆さんすいません。
今一番やりたいことは、小説を書いてみたい。題名は「点と戦」(予告編)。意味のわかる人は偉い。それにもう一つ「生前葬」をやりたい.今,町田で「自分らしい葬送を考える会」で勉強中。まだあります7月に「年金者組合」に加入しました。あと数年すると年金生活に入るかも知れないので,そのとき私だけが年金が多くいただけるように思って、不純な動機で入りました.今、年金支給がどんどん改悪されようとしています。「年金者組合とは」知っていて損はないと思います。
以上プロフィルパート1は終わります。パート2、3とプロフィルはころころ変わります。アクセスして損はないと思います。
このホームページは私の友人の金ちゃん(金ちゃんのホームページ「みちばた」)が作りました。金ちゃんは芸術家であり,又、文学者でもあり,スキーはプロなみです。またまた独身でもあります。名前のとおりお金も沢山あります。なんとかしてやってください。
終わり。
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