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第三章 生活綴方に生きて


小沢さんと木俣(倉敷アイビースクェア)
 


(1)

●私たちの生活教室 生活環境と作文教育 未来社(1951〜1953年)
 エントツの下の子どもたち

小 沢  勲    


「FFは荒地ダ!」を語らずに、話を先に進めることは出来ない。一九五一年四月一九日二時間目のことを、ザラ紙半分与えて書かせたところ、中学二年の女の子が、「先生」と、大真面目に呼びかけて来た。高橋義二が、

二時間目の時間国語だ
またあの先生だやだなあ
僕はあの言葉又口から出る事が
やでやでしょうがなかった。
「ジャリ」の話をすると先生が言った。
僕はきのう先生から注意をうけた時
今お前の家のお父さんは、
今ごろ会社で「ペン」をはしらせているけど、
そんなのまちがっているぞといった時
僕はくやしくてくやしくて
なみだが出て来た。
あんな先生、やめちゃえばいいと
僕は心からその事が出て来た。
僕は国語の時間の時なんか
なんにも心になんかはいならかった。
僕は世の中に国語なんかない方がいいと思った。
「先生国語の本が買ってあるんだから
先生そんな話あんまりしないで
本をやってください」と、僕はくやしさに
のどのところまで出てきたがとめておいた。

等と、着任半月に満たぬ、蝉坊主みたいな教え方をするぼくにタタキつけて来た。コアカリキュラム病という舶来の神経衰弱にかかり、五カ月ばかり眠られぬ夜を過ごして来たぼくは、生麦中学二千全員の素朴極まる綴方一つ一つに、強烈なる電気ショックを受けた。そして、ホッペタほてらし、鉄筆握り続け、十七頁のしよっぱなに「荒地」と題した原紙二枚分の前書きをつけ、表紙の真中に朱墨汁をポッタリつけ、胸ドキッかせながら、「FFハ荒地ダ!」と書きつけた。

  荒  地
 「FFハ荒地だ!」は、文集というのも恥ずかしい。水気のない、コチコチした土のかたまり。それを集めた人の手は、銀座の柳下行く女の人のように、青白く、やわらかな、すんなりの、チッポケな手。それは、その手は、荒土を前にして、手の下しようがない……。けれど、下した。
 国分一太郎とか、さがわ・みちおとか、今井誉次郎とか、鈴木道太という、えらい先生たちが、
 「下しようがない土に、手を下すこと。一くれ一くれの土に、息を吹きかけ、手のぬくみを与えてやること。それこそ、日本の教師がしなければならぬ、楽しみ多い仕事である。」
と、口を開けばいう。
 ぼくは「そうだな」と思って始めた。けれども、ぼくは手の冷たい先生。生ぐさい息を、ブキッチョに吹きかけるしか出来ぬ先生、楽しいのだか何だか、わけが分からない。第一、本物の先生たちがいう「しなければならない仕事」らしいことを、したことになるのかどうか、これ又わけが分らない。
 しかし、これは、横浜市立生麦中学校の小沢勲という先生と、生麦中学校第二学年F組の生徒が、分らないままに、一しょに、苦しいような、楽しいような気持でやったのだという事実にだけは狂いがない。
 わけの分らないことはやめて、ぼくに分っていることだけを君たちに話そう。君たちは荒地。ぼくも荒地。
 「FFハ荒地ダ!」の中にいる君たちは、「とても正直だ」と、ぼくは信じ、可愛くてならない。誰が何といったって、可愛い。先生バカという奴だろう、きっと。かまうものか。
 君たちのコトバを、字を通して聞き、ぼくは、
 「たしかにそうだそうだ」とこっくりし、
 「なんだコイツ」とオコリ、
 「そうなんですかそうなんですか」と涙をこぼしそうになり、
 「そうかい……」とため息をつき、
 「ウウウ……」と、うなったり、
 「フフフ……」と笑ったりしました。みんながうまく書いたからではない。(荒地が、うまいはずないからな)けれど、荒地は荒地なりに正直だったからだ。十時間位国語教室で向い合い時々ろう下で顔を見合わせる位の、ホームの先生でないぼくに、よくも正直な物のいい方をしてくれたものだ。正直、正直、正直、正直。みんな正直だ。ぼくは、中学生って、こんな正直な者だとは思わなかった。これでは、小学生と全く同じだ。ありがたいことです。みんな、中学生らしく、変に成長していなかったことが、何よりうれしい。けど、ほんとに成長していないかな。にくい、にくい戦争だった。みんな疎開っ子だな。
 正直は、何にもかえられない。尊い。けれど、みんなの正直は、上にバカの字がつく正直だ。これでは困るね。困るんだよ。ほんとに困るのだ。このまんまじゃあ、旭映画劇場で、「ザクザク娘」にオホオホ笑わされる娘さんになっちゃうし、千代田館の「獄門島」を手に汗にぎって見入る青年になってしまうのだ。それじゃあ、「なめとこ山の熊」に爆発している、宮沢賢治の怒りも、てんで、怒りとも感じないし、「君たちはどう生きるか」のコペル君だって分るはずがない。小十郎になろう。小十郎のように、熊と一しょに笑い、泣き、死ぬことの出来るような人間になろう。コペル君のお友だちになろう。じゃなきゃあ、正直がもったいない。
 こないだ、「作文研究」という雑誌を出しているチッチャな出版屋へ行って来た。景気がわるそうなので、
 「これも、銀河や赤とんぼや広場みたいになっちゃうんでしょうねえ」といった。おじさんは
 「いいえ、どうせ、もうけようなんて思って始めた仕事じゃないんですから、まあガンバリますよ」と、おっしゃった。戦争でいためつけられた日本の子供のために、心温まるもの。本が買えない、大福もちが食べられない日本の子供のためにアキラメでなく、希望と勇気を与えるもの。日本の子供と、すべての美しいものを心から愛す「詩の国」「少年少女」のおじさんたちは、みんな赤字です。ピィピィしながら、負け惜しみをいっている。
 みんな! いつまでもおじさんに苦労かけまい!
 憎いマンガだ!「少年画報」だ! 憎い憎いフロクの「少女」め! 「月見草」め! 「ほゆる密林」め! けれども、はじめから、「二人のロック」は読めない。「小さい牛追い」も上品すぎて、とっつきにくかろう。だから買わないで、借りて、マンガから、「少女サロン」から、「乙女の花束」から、「人間タンク」から読み始めよう。しかし、ぼくたちの目指す物は、あくまでも、「銀河鉄道の夜」にあり、「クリスマス・キャロル」にある。
 ぼくらの綴方も、荒地から出発する。そして、目指す所は、(いやなコトバだが)文化的荒地にある。横浜市鶴見区生麦町一帯に林立するエントツ。あのエントツが吐き出している、あの黒い黒い煙を、ぼくたちの生活から、原稿用紙から、立ちのぼらせよう。
 ボイズ ビイ アンビシャス
 ティーチャーズ ビイ アンビシャス
   子供の日
   児童憲章が出るという日
   けむり飛ぶ日
      エントツのみえる教室で
                     小沢  勲
 FFの諸君へ
  
 急ぐので、大切なことをいい忘れました。荒地の先生が、荒地の生徒の物を見たので、おかしな叱り方をしたり、へんてこなほめ方をしたり、わけの分らないひとりごとをいったりしているわけだが、先生は先生だ。みんなにやった返事を読んでくださいね。
 自分のだけではありませんよ。「自分だけ」なんていうバカなことはありませんよ。鈴木勝城君は、一人ぽっちの勝城でない。二Fの勝城だ。勝城の良い所は、二F全体の良い所。勝城の悪い所は、二F全体の悪い所。「人ごと」ではないですよ。シッカリ頼みますよ。読んでくださいね。読みにくいです。三省堂の「中等国語」みたいに、ハッキリした活字でないのです。キズだらけのプリントです。でも、だから読んでください。おもしろくないのです。「おもしろブック」みたいに、
 「キキ一パツ、フク面の怪人があらわれました。順一君の運命はイカがなりましょうか? 次号はまさに、ハランバンジョウ。御期待を乞う」といった調子は、まるっきりないのです。でもだから読むのです。読んでくださいね。お友だちを、心から大事にしてくださいね。FFを一生けん命愛して下さいね。
 文集の題からして、そうなんだが、君たちを丸ハダカにすることを、平気でしたムゴイこのぼくが、「荒地」の一枚目を刷り上げて見たら、不正直な所、とても、ヘンテコリンな所がありました。一太郎先生のお言葉を借りれば、さしずめ、「ゴタゴタ病」といった所だろう。「急ぐので」なんていったってダメだな。大日本帝国軍隊の耳たこコトバ、「イイワケダッ!」だ。二枚目にも、あるかもしれない。それを見つけるのもベンキョウです。ぼくのあらさがしをしてください。ハダカにされて、ムカッパラの立つ人は、しっかり読んで、ハラの虫をしずめて下さい。ヒュウガ・ヨシオ君なら、ヨシオ君のような人でしたら、きっと眼を皿にするだろう。
               くどいくどい先生から
 忘れっぽい皆さんへ

 文集「FFハ荒地ダ!」は、日本全国津々浦々に猛烈な反響を捲き起こした。(と、ぼくは確信した)チョクチョク活字でお目にかかった先生には、殆ど全部送った。小松孝子と佐藤怜子が風呂敷一ぱいにぶら下げ、岸谷郵便局へ運んだ。ぼくの小遣いはグッと淋しくなった。
 五月十九日、会田先生から、「こどもたちも、あなたもともにおそろしいといった感じです」「がんばれ小沢さん、あなたはいいひとだ」と図太い、力のこもったハガキをもらった。それを皮切りに、あちこちから大した激励を受けた。無着さんから、「同志っ!」と呼びかけられて来た時には、まるで関口修みたい。
 「ようし出来た、偉いぞっ」と怒鳴られ、ノート一ぱいに丸々とした三重丸をもらい、おまけに星印を三つも四つも書かれながら、「おーい、みんな、関口一バーン」とまた怒鳴られ、満月みたいな(大分黒ずんでいるが)顔、もうどうしていいのか分んないといった顔の修みたい。
 「これですよ、あの無着成恭」
 「あの『山びこ』の? あらホントだ。先生の字とそっくりね。ああら横書きね、随分変ってんのね。あたしもハガキ出してみようかしら。返事くれるかしら?」
 『ヘン! 天下の無着が、ちょっとやそっとで、そこら辺の教員に一々書いてたまるかい』といった調子で、学級のボスみたいにピクリピクリ鼻うごめかす始末だった。そして、少しばかり本買う金が減ったところで、文集の送りがいが大いにあった。差引き大もうけだったと勘定した。
 さあ、それから後は物すごかった。岸田吉之輔先生から一枚文集の奥儀を借用し、文集「エントツ」をぶっ放し始めた。担当四学級から集る日記を、ほくそ笑んだり、涙ためたり、はたの者にいぶかられながら、所かまわず読みふけった。徹夜で原紙切った。一日一時間の制限時間ではどうすることも出来ず、「食べながらこっち見てろ」とさけんで、行切り、推敲の仕方を教えた。煤煙の降りしきる真夏の道を歩きまわった。ザクザク貝がらをふみふみハマの路地裏をくぐり抜けた。煙のもやついた旭館で、ひばりの「角兵衛獅子」を一心に見入った。橘重三郎一座へ出かけ、オーバーの襟をビッと立てながら、終幕まで、唸って共鳴する浜のじいさんばあさん達の中にいた。
 その間、河出の作文読本、筑摩の中学生詩集、作文集等に子供のものが載せられ、読売コンクールに選ばれる等、すっかり気を好くし、いよいよますます神経衰弱とは裏はらの現象を呈して来た。十月十二日の所に、次のようなことが書いてある。「川崎住吉小、阿部進より文集“井田山”来る。ストライキとかなんとか書いてあるが、観念のからまわりコトバ、全然肉体化されてない。熱はある。惜しい。助けてやろう。」
 年度末が近づくにつれ、学級解体の話が持ち上がり、いよいよ決定したのを機に、「広場八号」に、ホームの子供たち一人一人への別れを書き残し、捨て子するような心で、教科担任制の中学校から離れた。
 
       二
 
 六年担任の話は、あんまり嬉しくなかったが、セカセカし通しだった中学に比べ、一日中一しょに暮らせることを思えば、胸ふくらむ気持ちだった。着任して一週間目、山田とき先生と鴫原一穂先生に、次のようなハガキを出している。
 山田先生と、先生の子供さん達にお便りしなければと思い、無類の筆不精から失礼し続けてしまいました。その間、学年末の雑務、お別れ文集、教科研大会、結婚、転任と、目まぐるしい日々でした。転任は、同じ土地の小学校です。六年生なのですが、中学と比べ、一日中子供と一緒にいられるのですから文句はいえません。生麦中学の一年間は、出勤簿にハンをおさぬ日は殆どないくらい、全てを子供と共にして来たつもりですが、結局、あの子は割算のあそこでつまるのだということが分っただけで、そこから先、一歩も進めてやることが出来ませんでした。数名の子が良い本を読むようになり、貧乏にいじけ切った、顔の青い、ペシャンコの下駄の女の子が、どうやら普通の子らしく明るくはなしてくれたものの、ちょっと手をかけてやれば目を輝かせエンピツ握る子に、最低限のチエをつけてやることの出来ぬ都市の中学というものは、どうにもこうにも始末の悪いものでした。どう考えても、ぼくの如き者には手のおえない教科担任制だと覚り、学級解体を機に、転任しました。
 鴫原先生、小学校へ移ってきました。突然だったので、いろんなことが立てこみ、グルグル目をまわしてしまいました。今まで丘の上からエントツを眺めていたのでしたが、いよいよエントツの下へやって来ました。おりて来るについては、いろいろ考えたのですが、矢っ張り良かったと思っています。下から火をボンボンたけます。今年こそ、ほんとにエントツらしく、エントツの下の先生らしく、汗を流して行きます。

 あの頃の日記をめくって行くと、次のような言葉が、くちゃくちゃに書きつけられている。

賢治「貝の火」を読む。ザワついた教室、「ホモイ」の名を聞き取れた子、弘志一人。
昨日、中学生が運んでくれた図書を戸棚から引きずり出し、机の上めっちゃくちゃ、今朝もひどい紙くずだ。
給食のあと、物すごい。パンくず、ブドウ豆、シチュー、猿の檻だ。ブドー豆をおはじき代りにしている。
今朝、あんまさんが道をつっ切ろうとした時、川端清さんが手を引いてやっていました。(手塚あぐりの話)
「今朝、いいなあと思ったことあるか?」弘志「ゴミや紙くずが落ちてない。」
遠田「先生が来るまでスモーやお手玉やってる人がすくなかった。」
横山「あばれているのが少なかった。」
「横山と遠田と、どちらの話し方がいい?」
桜井「どんなあばれ方をしてたか分るから、遠田君の方がいい。」
飯島「机がチッと整頓している」
山中「教室へ入って来た時、水鉄砲で水をひっかける男生がいなかった。」
あぐり「大ていの人が国語の本を読んでいた。」「悪いことをしたと思う人?」
赤堀「鼻紙を窓からポイと投げ捨てた」
・家庭訪問にまだ一日も行ってない松岡と川合
△ 松岡倉男、中学の兄ブラブラ、妹四年、弟二人キャラメル食いながら話す、父なし、母教科書買いでルス、明日来る。今朝、平野と坂本呼びに来た。
川合世紀、あす、抜糸。遠田、飯島、赤堀、平野、桜井見舞に来た。
道案内の赤堀曰く、「おれんちへよんなよ。父ちゃん酒飲むよ。」
松岡来る。みんな自習してるのに、彼はローカから寒々と校庭を見ている。「オイ」といったら恥ずかしそうに笑った。桜井と加藤が誘いに来てくれたとのこと、教科書、読み算だけ。
「昨日松岡と川合の家へ行って来た。松岡の家でキャラメル20円食べた。ガード下で草だんご食べた。30円。それから駅前でアイスクリームとコーヒー10円。豊岡通りのエビヅカへ入ったら壷井栄というおばさんが書いた「坂道」という良い本があった。金がなかったので買わずに帰った。」
あきれた顔をしている中で、手塚あぐりが、「先生、そんな食べることばかしに使わないで、本を買った方がいいと思います。」といった。
松岡来ていた。今日も坂本は、帽子をかぶったまんま。朝礼中も教室でも、頭からおでこにすごいキズのこの子は帽子をかぶりっきり。あの子もこの子も、平気で「丹下左膳」といっている。
「今朝気がついたこと。」
水越「花がある。」
平野「紙が落ちてない。」
赤堀「松岡君が花を持って来てくれた。」
川合「女生の方ばかりさしてある。男生の方にも平等にさしてもらいたい。」
山中「お花がきれい。」
会田「女生の方にエンピツのかすが多い。」
阿部「後の黒板の下の字が消えている。」
石井「机が乱れている。」
邦子「横山君が花をさしてくれた。女生は台田、手塚さんがさした。」
チューリップ・カーネーション・矢車草の美しい教室。生き返った教室。花々々々々々。
坂本が時間中変な声を出した。「左膳っ」と怒鳴ってしまった。小便をはねっ返しながら、東さんと便所のスノコ作り。
家庭訪問〈坂本悦郎〉六つの時、オタマを取りに行く途中国道でトラックにはねとばされての大キズ。入学当初は買ってやってもかぶらなかったが、今では裏へ行くにも帽子をかぶる。上り口に帽子かけがキチンとついていた。「ひねくれなければ」といい顔を伏せたお父さん。おれも昨日「左膳」といった。
教室へ入って行くと、ちゃんとしてたのは、川合、内海、磯野。あとはがやがや。キーキーいいながら紙の飛行機をとばしている。ボール紙の大砲を持ち、ズドーン。
給食配る女の子から、
「パンが小っちゃい、ジャムが少ない、きらいな物を多くすると、うるさくってしょうがないから、先生叱ってください。」
受け持って半月の感想
 掃除道具バラバラ、子供の心バラバラ、「ハイハイ」わめくだけで落着いて聞けぬ。男、女をなぐる。女まとまってるようだが、あるかたまりがある。ドッチボールやっても、特定の子ばかりに集中し、休み時間、校庭の日だまりにポツンとしてる子あり。まだ教室で一度も口きかぬ子、男四、女一一。
 受持が病気のため、五年生の後半十分面倒みてもらえなかった子供達。いじめたり、いじめられたりで、仲間意識などまるで失われている子供達の心と心を結び付けるため、ぼくは毎朝教室へ入って行くとすぐ、「お友だちの良い事」を聞き、聞いたことをセッセと記録していった。そうしているうちに、四月二十四日、遠田功、鈴木武雄、赤堀修一、阿部英子、手塚あぐり、合田保子らが投書箱を作って来てくれた。子供たちは特に「話せない子供」が、用意した半紙に、「良いことをしたお友達」のことをドンドン書いて来てくれた。

持永さんがあたしとならんでて持永さんがナイフや、ごむけしや、えんぴつをかしてくれる。
平野君や川合君、水こし君、吉井君、中沢君、加藤君、菊池さん、岩ぶちさんたちはかべの紙をとってくれた。
重田さんや内田さんはこーもりかさをなおしました。
私がそろばんがわからなかったら合田さんが教えてくれた。合田さんの心のリボンはピンク色。
四月二十五日、今日国語がはじまる前、荒井さんはげた箱の長ぐつがちらばっていたのでなおしていた。
私がかさがなかったから、さいとうさんがいれてくれた。
今朝学校に行くとき飯島君は一年生を学校につれてきてやった。
今朝菊池さんと石けりをして遊んでいるとちょっと職員室の前の水道を見ると坂本君は花の水をとりかえていました。(五月八日朝)

 中には、次のように、止むに止まれず訴えるといった調子の物がまざっていた。

××君はあたしのこと足でけっとばしてごめんもいわないでいった。△△君は石井さんのこと、うんこやといっていじめた。
ないしょ話はやめてもらいたい。あたしが先生にほめられると、○○さん達は帰り道私の方を見てこそこそ話す。
○○さん達は、まぜてといってもまぜてくれない。

 着任早々のあわただしい日々、薄暗くなった教室の投書箱から、さまざまなたたみ方の紙きれをつかみ出し、胸をときめかせながらポケットへ入れた。そして、「FF」の斎藤敏子がいみじくも表現した、「汗と油と香水とおしろい、ごっちゃまぜの京浜電車」の中で、「ああ、あの子がな、そうかそうか」と、繰り返し読んだ。家へ帰って返事を書きながら、
「生駒さんと前原さんは、きのう二つもいいことを見っけて書いてくれたよ。こんなに良いことなんです」と、朗々と読む明日の朝の自分、真剣に聞き入るいたずら坊主、恥ずかしそうで嬉しそうな、おとなしい女の子を心に描き、赤ペンに力をこめた。
 このようにして、「友達の良さを見合う投書」から、「笑顔のある教室」へ「ゲンコツのない教室」へ「花のある教室」へ「コソコソ話のない教室」へのスタートを切った。
 五月七日、誰がどの辺でつまるか、計算力を調査。五月十三日、八百八十一字を原紙八枚に書き、綴じて子供に渡す。この一年で中学へ出て行く子供に、最低の知識を獲得させる為の準備を進めると共に、「投書」をもとに、 。「 」のこと、いつどこで、誰が、どうして、どうなった、どう思ったの書き方指導に全力を尽くし、他校の子供の日記、詩、綴方などウンと読んでやった。そうして、日記を書くことを進めた。五月二十二日、川端清と加藤昌広、山中正子と工藤恭子が日記を出した。二十九日の所に、「よく書いて来る。たまげた。中学生はこうはいかなかった。こう書かれてはたまんなかったが……。とに角く書く」とある。かくて、「投書」と「日記」に、貴重な新婚生活の時間を提供し、六月十四日、小学生版「エントツ」第一号を出した。号を追うにつれ、

  教 室             須田 美也子
 分数の出来ない人は、放課後一、二、三班にすわった。先生が黒板に、1/2+1/4と書いた。エンピツをなめながらやっている人。ノートをじっと見ている人。出来た人から持って行く。あっていると、ノートをしっかり持って、心の底からニッコリ笑う。私もなんだかうれしくなってニッコリ笑った。先生のいった言葉を思い出した。
 「一人の悲しみがみんなの悲しみになり、一人のよろこびがみんなのよろこびとなる。それが教室だ」なる程なと思った。

  ありがたい            藤原  明
 「滝川さん」と呼ぶと、「はい」と、元気のいい声でへんじをする。ぼくが、「この漢字なんていうの?」ときくと、「それ、せいかく」「これは?」「ちょくせつ」と教えてくれる。滝川さんは、朝の自習の時、「算数の問題出して」というと、「142×3」という問題をおしまいまで教えてもらった。ぼくは勉強ができるようになってうれしい。こういう親切な人がいてありがたい。

 というような綴方を手にし、どうやらわけが分ってきたわい、民主的に教室になって来たものだと喜び、公立中学へ来るまで、「あなたのお子さんは頭がいいんだから、ちょっとぐらい金がかかっても、ゼヒ私立へやんなさいよ」等と余計なおちょっかい焼いて、制服制帽の整った私立というものは、何から何まで結構ずくめだと、ついこの間までおもいこんでいたぼくは、遠田功の、

 「病院の待合室で、デン助にまるっきり似た人が、おばあさんに席をゆずった。その時、そばに素晴らしい洋服を着た人がいた。ぼくは“人間は上っ面だけじゃきまらない”と思った」

 という日記に心から共鳴し、課長さんの娘邦子が、「お父さんの月給だけじゃ間に合わない、近頃頼まれ物を母が縫う」と書いて来たものをプリントしながら、この子まで内職という物を恥ずかしがらなくなったのだと、瞑目しばし、うたた感慨にふけった。
 生来発音不明朗な川端清をはじめとし、中島信行、持永朝子、浦山末子、志田八重子、傘持って来た母の顔を窓越しに見ただけで、もうマッカになってしまう飯島ノリ子等が、「胸のドキドキと口びるのふるえ」に敢然立ち向い、克服して行く強さに、内気なため周囲に迷惑をかけて来たぼくだからこそ、我が子ながら大したものだと目を大きくみはったりした。
 中学五年まで、「講談倶楽部」と「キング」ばかりだったぼくは、浜の子信行が、文庫「クオレ上」の裏表紙に、「ぼくの日記は、だれが言ったら、ぼくはこう言ったと、一々言った言ったと書くけれど、この本はそんな余計なことが書いてない」等と書きつけてあるペン字を見たり、前原初江が、岩波文庫ならなんでもいいんだという勢いで、「河童」なんていう恐ろしい本を買って来たのにビックリし、マンガばかりではない、よい物を読み出した教室の動きに、満腔のホホエミを浮かべたり、

 レースが終わったらしい。「さあいらっしゃい、いらしゃい」焼鳥のにおいがジリジリにおう。下を向き、しかめっ面で来る人。「もうかった」という顔で、ウドン屋へ入って行く人。さまざまだ。「一家そろって花月園、よい子はみんなで花月園」と書いたはげっちょろの看板の下、ぞろぞろぞろ、大人が出て来る。

 と、天っ晴れ、子どもの人生批評をやってのけた加藤昌宏に激讃を浴びせたりした。この組唯一の女中さんのいる家の子工藤恭子が、よろこび勇んでストーブ当番をやり、勉強部屋の窓越しに、「体を丸め、『寒くて困るな』と口から白い湯気を出し」て行く工員さんに、温かい心を寄せている詩を持って来た時、わが「生産教育論」ここに結実せりと深呼吸し、そうこうするうち、「詩の国」「作文と教育」を読む仲間が出来、二、三の学級から文集も出始め、浦山末子のお母さん等から、
 「子供を通していろいろ話を聞くのですが、先生は、しゃべらない子とか、出来の悪い子の取り扱いがうまいですね。『エントツ』なんか通して、家の子もどうやら考えが六年生らしくなって来ましたよ。」
 等とほめられるに及び、ぼくは、「横浜の無着」といった顔で、胸をグンと張り、口笛をピーピー吹きならした。
 
       三
 
 十二月に入って間もなく、
「労働者街の学校を歩いても、どうも街の空気からズレた感じの先生が多いけれど、先生は労働者のにおいがするね」
 と学校出入りの人からいわれ、ちょっと目をそらしながらも、満更でない顔をしたその日の午後、未来社からの「原稿依頼状」が届いた。
 「未来社遅いぞ。しかし今からでも遅くはない。よし、画期的な書物になるよう協力する」と、そうつぶやいた。
 休みが明けて、原稿用紙百枚買って来た。そして、いよいよコウソウに取りかかった。だが、「特に貴方の地方の職業的環境と子供の生活を結びつけて、子供を正しく指導される御抱負に力点をおいて頂けますようお願いします。貴方の場合は工場街の特色を出して頂きたく存じます。」という依頼状の文句が、こびり付いて離れない。「職業的環境」「結びつけて」「工場街の特色」それ等の文字に、「横浜の無着」は、簡単にあわて出した。そして、研究発表前のような、いやらしい目で色々な文献を漁り出した。漁りながらハッと気付いた。
 おれは、自分の組の子にとって一番大きな環境である両親が、どんな顔をしているのか、どこでどんな働き方をしているのか、どんな考えで寝起きしてるのか、そして、どんなことを子供の上に期待しているのか、それすら少しもハッキリつかめてはいなかった。トンマな先生は早速、卒業間近な子に、「環境調査」「児童調査」みたいな物を書いてもらった。そして改まった心で、子どもと自分の日記を読みかえし、改まった目を、子供の親へ向けた。
ガサついているが人情味たっぷり、正直無類の皓三は、

「『早起き鳥』の音楽が始まると、アサリをむいていた兄ちゃん達は、一せいにどう着を着ておはちをかかえ、寒い朝の道をふっとんで行く。見る見る家の中は六人になってしまう。母ちゃん姉ちゃんは、表へむき実、ハマグリ、バカを売りに行く。家の中がやっと静まり返らぬうち、赤んぼがギャーオンギャーと、でっかい声で泣き出す。おれなんか学校へ行くまでむいてる。学校から帰ると又むく。舟が帰って来ると上げに行って、終わると又むく。おれんちはいつになったら片ずくかわかんねえ。」
 「海は貝がだんだんなくなって来たから、おれは大きくなったら会社へ行く。」

と書いて来た。そして、この子のとっちゃんとかあちゃんから、
 「男五人どうするか考えると頭が痛む。仲買いはデェジンになるが、漁師はいつまでも漁師、割に合わねえことは百姓とおんなじだ。飯はのこったら食う、家じゃ一日六升。」
などの話を聞く。
 寝坊して、「だから夜おそくまで勉強するじゃねぇ」と叱られた、おとなしそうだが極めてシンの強いノリ子の家へいったら、
 「先生、中学行かなきゃいけねえのかね。どうも出来が悪くってね。出来が悪いから余計やってやんなきゃいけねえかねえ」
と、長ぐつのおばさんが、アサリを大だるへおんまけながら大声で言った。土曜の午後、ノリ子は五年の妹と縁側にすわりこみ、セッセセッセとむいていた。
 生真面目で日向ばっかで、陰なんてこれぽっちもない明が、

 「家の父ちゃんは、石炭運びと会社のドブ作り。雨が降ると家にいる。かんじょうもらうと酒のんでくる。帰り、今川やきかタイやきを買ってくる。だから八時ごろまでねないでまってる。もらって来た金は近所にかえしに行く。お米を買って給食代を持って行くと、すぐなくなってしまう。ぼくの家のくらしはいつも借金だ。」

 「父は秋田、母は山形」九人家族の名を書き連ね、姉三人の下に、母の欄と同様、「ナット売り」と書き、最後にポツンと、「六じょう一部屋」と書きこんでいた。
 「あたしは、江ノ島の岩本楼で五年女中奉公したが、三十七人中一番早起きで通しましたよ。貧乏こそしてるが、悪いことはこれぽっちもしていない、いつも子供に話すんですよ」
と、目をぐしゃぐしゃさせながら、明のお母さんは話してくれた。

 初江は書いた。
 「お父さんの月きゅう日が、だいたい四〇〇〇円しかないので、それが三日かんになくなる。だからお母さんが鉄ひろいして、そのお金で、父ちゃんのおべんとうのおかず買ったりしている。おかず買ったり、タバコ銭やったり、おふろいったり、そいだけで働いたお金はない。」


 弘志は書いた。

 「父ちゃんの一万五千円の給料じゃあ、七人家族はやっていけない。だから、今まで母ちゃんもつくだに工場へ行ってたが、『こう寒くなっちゃあ子供が可愛そうだ』といってやめた。そして今ではコークスなんかを拾っている。おれんちは、雨が降ると半分使えなくなる。父ちゃんはタバコすうのを少くがまんしている。おれだっても、エンピツなんか買うのえんりょしている。家の生活は『井の中のかわず』みたいだ。いつまでたっても貧乏から抜け切れない。おれは早く大きくなって、母ちゃん達を一日も早く、この貧乏井戸から出してやりたい。」

 八重子は書いた。
 「こないだお母さんは、よその会社へ一日行った。夜になってから、『おふろへ行こう』といった。お母さんの頭はまっ黒だった。ふとんへ入ってから、『お母さんくたびれたでしょう』といったら、『うん』といってねてしまった。朝、『手が痛い、ごはんよそるのも痛い』といった。私は、どんな仕事をして来たのだろうと思った。」

 これ等の綴方をもとにして「臨時工」というものを始めて知った。短期契約で、団体協約の適用はまるっきり受けず、年がら年中クビのことを心配し、病んだらおしまいだということを、始めて聞いた。そして、“貧乏井戸の子”から、「ゆうべ父ちゃんと母ちゃんが、『教科書も買わなくてすむし、これでかかりがずっとへる。肩の荷が軽くなったようだなあ』と話していた」ということを耳にした時、「義務教育費国庫負担」などというコトバを作り出した者共に対し、心の底から、グーッと突き上げて来るものを感じた。
 ニコヨンの子修一は、病気の父持つこの子は、「薬でなおせないで困っている人を助ける為、医学者になりたい」と打ち明けた後、次のようなことを書き綴っていた。

  米一キロ
 朝、七時五分前頃出かけ、どぶ掃除し、二四〇円もらって母が帰ってきた。もう五時半になる。ローカふいたり庭はいたり、全部仕事はすんだ。「おかいんなさい」「はいよ、あーあ」とローカにドテンと腰おろし、「くたびれた。今日は随分歩いたもの」と一人ごといいながら、息をハーハーさせ、たびをぬいだ。「お母さん、米といどかなかったよ」「うん、じゃ米一キロ買って来な。外米はまだあるだろう?」「うん、あと二合位あるよ」「じゃ米の通帳と袋持って行きな」「うん」といって、六十二円にぎり、村田屋へかけてった。お客はおれ一人だ。通帳を黙ってポイと投げた。何も言わないのに、もう帳面に一キロと書いた。『毎日毎日一キロずつだから、もう言わなくっても、分かってるのかなあ。よし、いつか一ぺんに取ってみせる』と思いながら、「米一キロ」と言った。言った時は既に、もう米をはかっていた。袋を突き出し、米を入れてもらった。

 町工場の子は、「電休日をなくしてもらいたい」といい、社外工の子は、「雨ぐつがほしい」と書く。
 そして今日、二月十三日昼、パン齧りながら、チラッと、ミルク配る和美の手を見た。左の手のひら、赤チンが、テンテンテンテン。この子のお父さんは、レッキとした大工場の工員だった。たたき上げの熟練工だ。
「なんだお前、むいてるのか?」
「ウン」といって、すらすら話し出した。
「岩沢さんちのアサリを五ハイむく。一ハイ八升位。小さいのは一パイ五十円。普通のは三十円。大きいのは二十五円、バカは二十円。大きいので、あたし一人で二時間かかる。小さいのは母ちゃんとあたしで一時間半。岩沢さんちのは近所六軒でむいている。四年生位の子もむいている。三月になるとアサリがもたなくなるから、三時頃起きてむく。昨夜は十時までむいた。手のキズは、むきぼうちょうとつぶれた貝がらで作った」のだと。
 それから三日後の私の日記。

 二時間ぐらい話してもらったろうか、突然、おばさんがかけ込んで来た。
 「すじからうんだ(膿んだ)って、早く行って」下駄を突っかけ飛び出したおじさんの後を追い、すぐ裏の病院へ飛び込んだ。
 よれよれのベッド。和美は悲鳴を上げ、手をブルブル震わせている。おじさんは、和美の頭越しにおおいかぶさった。
 「痛いよ痛いよ……ああっ、痛い痛い」桃色スタンドの向う、紫色にふくれ上がった肉の所へ、ブスッと注射器が突き刺さる。ナイフが光る。
 「あゝ、あゝ、痛いよう」
 「がまんしな、がまんしな」
 するするするっと、ギラついた血が油紙にこぼれ落ちる。又注射、「マスイが効かない」そしてナイフ。キズ口がパクリ開いた。
 「あ……あ……あ、あ……」
 ぼくは、目をそらしカバンをグッと握り、突っ立った。両足にグッと力入れ、「野村式人口呼吸」の八字をにらみつけていた。
 「バッターン!」ふり返った。あっ! おじさんが板の間へ、仰向けにぶっ倒れている。和美は唸り通し。おじさんは真っさおな顔で口を動かす。看護婦さんがバンドをはずした。カバンをおっぽり、急ぎボタンをはずし、坐ぶとんを頭の下へ押し込んだ。注射。青白く硬直した顔に、ペンペン草みたいなあごひげ。
 今度は、ぼくがお父さんに代わり。
 「おい、ガンバレ、もうじきだ。ガンバレ」
 ブルブル奮える腕を押さえる。号泣と金属音と……ながあい時間……
 今おれは、機械編みの内職する母、心臓喘息の父がいる部屋で、ペンを走らせている。あの痛み止め効いたろか。和美まだ痛むか。おじさんは大丈夫か。あの悲鳴と、キズ口と、ナイフと、スタンドと、そして青い顔。おれの頭は、まだササクレ立ったまんまだ。
 どうしてだ。どうしてなんだ! こらえ切れぬ娘の痛みがそのまま(それ以上)自分の苦痛となり、血の気をなくしてぶっ倒れたお父さん。二十余年も磨き上げた職工さんが、倉男の「平がな練習帳」を、「ぼくの原稿用紙」を、子供一人一人が、それによってチエをつけて行く紙、その紙を作り出す機械、そんな大事な物を作り出して行くあのおやじさんが、どうして最愛の長女に、この寒風の中、冷たい、痛い、アサリむきをさせなければならないのだ! 
 どうしてだ! どうしてなんだ! 一体全体どういうわけなんだ! 和美は立派な子供だ。学校の和美をちょっとでいいから見てくれ。悪いことなんて、これっぽちもしやしないぞ。見ろ見ろ、田辺よし子と栗林宏明と、坂本悦朗と、ニコニコ給食を配り歩いているじゃないか。ほら見ろ、こんな七めんどくさい算数の問題だって、かじりついて考え抜いて、しがみついてやってるじゃないか。家へ帰りゃ、寝た切りのおじいさんの世話をし、やっかい者の弟、妹の世話で、放課後ドッチボールなどノーノーとやっていられない子なんだ。それなのに、どうしてこのホッペタのまあるくふくらんだ可愛らしい田辺和美が、貝殻のかけらとむきぼうちょうが作り出したキズの痛みに、顔をゆがませ、唸り抜かねばならないのだ! どうしてだ。一体全体、これはどういうわけなんだ。

※コアキャリキュラム…アメリカに始まり、国語とか算数とか教科にとらわれず、総合的に学習していく教育法。従来なかった教育法で、超モダンに見え、教師たちの戸惑いが多かった。


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