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第二章 小沢学級で学んだ人たちの証言

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●教え子が語る小沢先生のこと
  
この文章は十数年前に執筆されたものです

 小沢勲先生の思い出
           光野 美也子

 小沢先生の思い出は、沢山あって迷いますが、やはり生麦小学校六年生の時に、担任として現われた出会いの事からでしょうか。
 まず黒板に、チョークが折れる程力強く、小沢勲と書いて、勲の杰は米粒だと言われたのを覚えています。風が吹いても飛ばされないような、しっかりした字を書けとも言われました。怒ると軍隊調に、てめえら!となりました。とにかく、生徒一人一人に興味を持ってくれて、一生懸命作文教育に燃えていた先生の熱意は、子供心にも胸にしみました。
 勉強が遅れている子には、放課後、個人指導もなさっていました。今、落ちこぼれと言われる子供たちの事を考える度に、放課後、玄関前で、ノートを見てやっている先生の姿が心に浮かびます。同時に、教師を志す人には、人間の人格形成の一端をになっているという自覚と熱意が、絶対に必要だと思うのです。
 高校時代、私は先生の影響でしょうか。文学研究部に入って機関誌を編集していました。やっと自分達の手で出来上がった本を先生に送りましたが、大分経ってからの葉書に、中学を出て働いている子供の作文と比べて考えさせられた…とありました。ガーンと殴られた思いがして、その後送れませんでした。私が結婚するまで、手作りの文集を近所の子供に持たせて届けてくださいましたが、余白に書き添えられた☆印と、あの特徴ある文字に、懐かしさと暖かさが、にじんでいました。
 先生はお酒が好きで、私が子供を連れ実家に帰っている時に、偶然顔を出された事がありましたが、私の母が先生のお酒好きを知っていて、何がなくてもコップ酒をすすめていました。五年程前、現在の私の家に訪ねて来られた時は、高齢のお母様が、交通事故でけがをされたと、お酒を絶っておられました。相手の若い運転手に腹を立てていましたが、考えてみますと、先生はいつも何かに腹を立てておられたような気がします。
 手がかかるからと、作文教育に熱を入れる教師が少なくなってきていること、家永教授の、教科書裁判のこと。成田騒動の時は、機動隊の警棒で、腰を打たれたと電話をくださって、心配しました。以前の先生とは、体も一回り小さくなられていたし、丈夫そうには見えませんでしたから…。
 先生がずい分前から、精神的な病気を持っておられる事は知っていました。その為に、病的な言動と見る人も居たようです。
 身の回りに、本やら書類やらレコードやらを置いて、寄せ書きの日の丸を首に巻き、あのもうもうたるたばこの煙の中に座っている姿と、おもしれえ、おもしれえと、子供達の話を聞いていた昔の小沢先生とが重なり合うのは難しかったけれど、私の詩が載っている一冊の本が、私の宝である事に違いありません。人間に必要な何かを残してくださった小沢先生とのかかわりを、ありがたいと思っています。
 横浜の無着(※)と言われて、喜んでいた小沢先生。あなたは本当に教師らしい教師でした。今も、私達の知らない所で、心を燃やしていらっしゃるのではありませんか。

※東北の生活のにおいを発散させて「山びこ学校」雪はコンコンふる/人間はその下で生活しているという実践記録をまとめられた中学教師、無着成恭氏のこと。
 
 
 先生が遺されたもの
           小林 邦子

 「あなたが学校生活で一番印象に残っている先生は?」と問われたら、私は即座に「小沢先生」と答える。
 小学六年の一年間の担任であったが、小沢先生は私の心の中に鮮やかな影を落とされ、三十年近くたった今でも、少しも色が褪せていないのである。
 「飾る」ことが大嫌いで、飄々とした笑顔。思いつくままに行動され、子供心にもびっくりすることもあったが、人を蔑むことや弱いものいじめには容赦されなかった。テスト教育よりは、人間教育に手を抜かれない先生であった。
 先生は作文や読書を通して、人としての生き方、考え方を掴むことを教えてくださった。私はそのころ、吉屋信子や佐藤紅緑に夢中であったが、先生から「宮沢賢治」や「壷井栄」を教えられたときの新鮮な驚きは忘れられない。坪田譲治、国分一太郎、吉野源三郎、竹山道雄などの本を読んでくださった。子供向けの本など碌にない時代である。白い布に染み込むように私の心に入ってきた。
 先生は「この少年はどうして恥ずかしいと思ったのだろう」などと、本を読む途中何度か質問され、考える力を与えてくださった。現在の教育方法では珍しくないが、当時そんな形の教えを受けたのは初めてだった。
 私は中学に入ると、学校や市の図書館に通い、先生が良いとされた作家のものは随筆のはてまで読み漁った。それらを読んでいくうちに、先生の考えは間違いないと思い、信頼の度を深めていった。中学、高校時代は本ばかり読んでいたが、他の作家のものを読んでも「小沢先生なら、この本をどう思われるだろう」とつい考えてしまうのである。先生の影響をもっとも強く受けた一人なのだろう。
 これが二十才ごろまで続き、私は短歌にひかれて作りはじめたが、六年生のとき、先生に「短歌や俳句をやっては駄目だ」といわれたことが気になり、先生の教えに背いている気がして落ち着かなかった。そこでわざわざ戸塚のお宅に出かけていったのである。
 「先生、私は短歌をはじめました」おそるおそる言うと先生は、「ホー、いいことだね」とおっしゃった。「先生は短歌を駄目だと言われたことがありますね」と言うと「子供はね。子供が字数にとらわれて、のびのびしたものがなくなるんでね。大人だったらいいなあ、どんなのを作るのか見たいなあ」と言われ、ひと安心した。私達が教わった頃より、ずっと落着かれた態度で、優しい眼であった。
 結婚後たよりもせずにいたが、私が三十少し前であったと思う。実家から六年生の頃の日記が出てきた。ところどころに赤ペンが入り、「アッハッハッハ、伊藤邦子はおっかないこと考えるね」などと書いてある。その日記を読んでいくうち、「ひとの心を大切にする」という先生の教えと、それを受けとめようとする、子供心が滲むように伝わってきた。先生から教えられたことが、現在の自分の人間性の基礎になっていることに、あらためて気がついたのである。
 私はこのことを先生に知らせたいと思い、便箋五、六枚の手紙を書いた。半年もたった頃であったか、先生から返事が来た。夢にも思わなかったことだが、先生は病気で入院されていたそうである。
 「私が入院する朝、あなたからの手紙が届きました。手紙を握りしめて病院に向かいました。この手紙がどれだけ支えになったか」と書かれていた。
 早速お見舞いに伺ったのはいうまでもない。以前のなみなみした気力が感じられないのは寂しかったが、お元気そうで元の六年四組の友人達の消息など話して下さった。そして私達の後輩である、先生の担任されたクラスの文集などを見せていただいた。
 文集を読んでいて、私達の頃より年を追って子供達の作文が上手になっていることに気がついた。そのことを言うと「教え方もうまくなっていくんだね。教え方によっては子供達の作文能力を限りなく引き出せることに最近ようやく気がついたんですよ」とおっしゃったが、印象的な言葉であった。先生の教育に対する真剣さをあらためて感じた。
 その後、私の息子が四年生の時である。社会科「工場地帯の子供達」というテーマで、担任の先生が「子供風土記」をコピーして教材とされたのだが、その中に「生麦小六年、伊藤邦子」名の詩が入っていた。担任の先生に話すと、他の本にも私の名の作文が載っているそうである。小沢先生が「日本作文の会」常任委員として活躍されているのを知り嬉しく思った。
 私は四十近い今でも、小沢先生の影から抜け出せないで居ることに気づき、一人で苦笑することがある。短歌が好きで作っているが、花鳥風月を詠むより、生活や世相の歌が多い。先生は「作文や日記を書くときは“アッ”と思ったことを書け」と繰り返し言われたが、短歌も同じことで、叙景歌でも叙情歌でも「“アッ”と思ったこと」を詠まなければ感動のない歌になってしまう。「アッと思ったこと」の教えは今も忠実に守っているのであるが、それだけ素晴らしい教えなのだと思う。
 この二、三年、先生に賀状を送っても返事のないこともあり、「もう古い教え子だから忘れられたかな」などと呑気に考えていた。同級の横山氏より思いがけない電話をいただき、小沢先生がなくなられたことを聞かされ、愕然とした。心のよりどころを失った思いである。まだまだ長生きしていただきたかった。
 悲しみは大きいが、先生が遺されたものの大きさは計りしれない。先生の心は私達教え子から、次の世代になにかの形で伝わって長く生き続けるだろう。私は小沢勲先生こそ真の教育者と信じて疑わない。



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