小沢先生の思い出は、沢山あって迷いますが、やはり生麦小学校六年生の時に、担任として現われた出会いの事からでしょうか。
まず黒板に、チョークが折れる程力強く、小沢勲と書いて、勲の杰は米粒だと言われたのを覚えています。風が吹いても飛ばされないような、しっかりした字を書けとも言われました。怒ると軍隊調に、てめえら!となりました。とにかく、生徒一人一人に興味を持ってくれて、一生懸命作文教育に燃えていた先生の熱意は、子供心にも胸にしみました。
勉強が遅れている子には、放課後、個人指導もなさっていました。今、落ちこぼれと言われる子供たちの事を考える度に、放課後、玄関前で、ノートを見てやっている先生の姿が心に浮かびます。同時に、教師を志す人には、人間の人格形成の一端をになっているという自覚と熱意が、絶対に必要だと思うのです。
高校時代、私は先生の影響でしょうか。文学研究部に入って機関誌を編集していました。やっと自分達の手で出来上がった本を先生に送りましたが、大分経ってからの葉書に、中学を出て働いている子供の作文と比べて考えさせられた…とありました。ガーンと殴られた思いがして、その後送れませんでした。私が結婚するまで、手作りの文集を近所の子供に持たせて届けてくださいましたが、余白に書き添えられた☆印と、あの特徴ある文字に、懐かしさと暖かさが、にじんでいました。
先生はお酒が好きで、私が子供を連れ実家に帰っている時に、偶然顔を出された事がありましたが、私の母が先生のお酒好きを知っていて、何がなくてもコップ酒をすすめていました。五年程前、現在の私の家に訪ねて来られた時は、高齢のお母様が、交通事故でけがをされたと、お酒を絶っておられました。相手の若い運転手に腹を立てていましたが、考えてみますと、先生はいつも何かに腹を立てておられたような気がします。
手がかかるからと、作文教育に熱を入れる教師が少なくなってきていること、家永教授の、教科書裁判のこと。成田騒動の時は、機動隊の警棒で、腰を打たれたと電話をくださって、心配しました。以前の先生とは、体も一回り小さくなられていたし、丈夫そうには見えませんでしたから…。
先生がずい分前から、精神的な病気を持っておられる事は知っていました。その為に、病的な言動と見る人も居たようです。
身の回りに、本やら書類やらレコードやらを置いて、寄せ書きの日の丸を首に巻き、あのもうもうたるたばこの煙の中に座っている姿と、おもしれえ、おもしれえと、子供達の話を聞いていた昔の小沢先生とが重なり合うのは難しかったけれど、私の詩が載っている一冊の本が、私の宝である事に違いありません。人間に必要な何かを残してくださった小沢先生とのかかわりを、ありがたいと思っています。
横浜の無着(※)と言われて、喜んでいた小沢先生。あなたは本当に教師らしい教師でした。今も、私達の知らない所で、心を燃やしていらっしゃるのではありませんか。
※東北の生活のにおいを発散させて「山びこ学校」雪はコンコンふる/人間はその下で生活しているという実践記録をまとめられた中学教師、無着成恭氏のこと。
|