私の手元に昭和三十年十一月発行の「日本のこころ」五年生という本があります。その中に\明るい教室\(五年生の作文と詩)というのがあります。
「うらめしい花火」
巴 淳一
花月園のふみ切りを渡ろうとしたら
花火が
「パンパンパンパン。」となった。
あんな競輪場がなかったら
工藤君はブタ池なんかで
クギぶっとおして
死ななくてよかったんだ。
おれは
花火が
うらめしくてしょうがなかった。
(注・花月園競輪場は以前は無料動物園でした)
「働く子」
巴 淳一
ビュービュー
風を切って走った
パン屋の前で
飯島さんと出っかした。
カメみたいな車を
ガラガラ引いてきた。
バカ(貝)がバケツに四はいのっかっている。
飯島さん、
こしのまがったおばあさんみたいに
車を引いている。
おれはブレーキを止めて見ていた。
女の子なのに
よく働くなあ……
二十年ほど前、母が小沢先生のことを話題にしました。「じゅん、お前は、お世話になったんだから、一度、同級生を集めて、先生と会ったら」と言われました。
私は、そうだ。一度、小沢先生と会って、いろいろ話しをしてみたいなあーと思いました。が、仕事と野球の審判員として忙しく実現しませんでした。
いま改めて、あの時、先生から頂いた本を読み返して「私と小沢先生の出会い」がふつふつとよみがえってきました。
私が、五年生になってはじめて書いた詩は、詩/し/死/しーい/しょうべん と書きなぐったものでした。てっきり怒られると思っていましたが、それを見た小沢先生は、大きな声でよみあげて、「素直でいい詩だ。小便がしたいのか」といって、クラス中を笑いの渦にしました。それから、私は「詩」は思っていることを素直に書けばいいんだ。これならできると自信がわいてきました。クラスの仲間も「詩」を書くことに夢中になってきました。 |