「サタデーリーグ」トップページへ
前ページへ

第二章 小沢学級で学んだ人たちの証言

(1)


現在の生麦小学校校門と教え子の臼井淳一
 (門扉は当時から変わっていない)
 


●小沢先生のこと   臼井淳一(旧姓・巴)


【1】私が書いた初めての「詩」

 私の手元に昭和三十年十一月発行の「日本のこころ」五年生という本があります。その中に\明るい教室\(五年生の作文と詩)というのがあります。

「うらめしい花火」
                   巴 淳一
 
花月園のふみ切りを渡ろうとしたら
花火が
「パンパンパンパン。」となった。
あんな競輪場がなかったら
工藤君はブタ池なんかで
クギぶっとおして
死ななくてよかったんだ。
おれは
花火が
うらめしくてしょうがなかった。
        (注・花月園競輪場は以前は無料動物園でした)

「働く子」 
                   巴 淳一
  
ビュービュー
風を切って走った
パン屋の前で
飯島さんと出っかした。
カメみたいな車を
ガラガラ引いてきた。
バカ(貝)がバケツに四はいのっかっている。
飯島さん、
こしのまがったおばあさんみたいに
車を引いている。
おれはブレーキを止めて見ていた。
女の子なのに
よく働くなあ……

 二十年ほど前、母が小沢先生のことを話題にしました。「じゅん、お前は、お世話になったんだから、一度、同級生を集めて、先生と会ったら」と言われました。
 私は、そうだ。一度、小沢先生と会って、いろいろ話しをしてみたいなあーと思いました。が、仕事と野球の審判員として忙しく実現しませんでした。

 いま改めて、あの時、先生から頂いた本を読み返して「私と小沢先生の出会い」がふつふつとよみがえってきました。

 私が、五年生になってはじめて書いた詩は、詩/し/死/しーい/しょうべん と書きなぐったものでした。てっきり怒られると思っていましたが、それを見た小沢先生は、大きな声でよみあげて、「素直でいい詩だ。小便がしたいのか」といって、クラス中を笑いの渦にしました。それから、私は「詩」は思っていることを素直に書けばいいんだ。これならできると自信がわいてきました。クラスの仲間も「詩」を書くことに夢中になってきました。


【2】「弱い者いじめは卒業だ

 小沢先生の顔は、サザエさんの「マスオさん」にそっくりです。先生が怒られるときは、眼鏡がずれ落ちマスオさんそのものになります。

 私の家では、弟が次々と生まれたため、近所に住む祖父、祖母に育てられました。いわゆる「おばあちゃん子」です。特に祖母は初孫の、私を「かわいい、かわいい」で育ててしまいました。私が杉山幼稚園を三日間で退園した記録は、いまでも破られていないそうです。わがままに育ったので集団生活にどうしても慣れなかったのです。

 「三つ子の魂、百まで」とは、よくいったものです。、私は社会人になっても、組織とかに縛られるのは大嫌いです。今、野球の審判員をやっている私が、本当の私の姿だと思います。

 小沢先生に怒られたのは、クラスの障害のある子が転んだところを私が調子に乗って、顔をスリッパで踏んづけてしまったのです。それが先生に分かってしまいました。
 「巴まえにでてこい。横になれ。お前のやったことは、こういうことか」といって、私の顔を先生はスリッパで踏みました。

 私は、いままで生きてきた中で、これほどの屈辱感をあじわったのは、はじめてでした。横になりながら、何故か涙がぼろぽろでてきました。さらに先生は、
「巴、立て。弱い者いじめは、今日で卒業だ」と言われました。
 私は、先生のこの一言で、教室に大きく響く声で「わーん、わーん」泣きました。

 先生は「巴、席に戻れ。明日のソフトボールの試合、お前、投げるか」
 私は、しゃくりあげながら「はい投げます」と返事するのがせいいっぱいでした。

 小学校五年生の暑い日のできごとでした。





【3】家庭訪問・鳩小屋を見てくれる先生

 小学校一年生の入学式アルバムの人数を数えたら、なんと六十三名もいました。このまま五年生にスライドしたとしても六十名近い生徒がクラスにいたのではないでしょうか。
 一つの教室を高学年と低学年が午前と午後に分けて使用した記憶があります。全校生徒が二千人以上いたのではないでしょうか。中学生になると一クラス五十名以上で十クラスあるのです。一学年五百人。全校生徒は千五百人近くいました。先生も出欠をとるのが精一杯の状況ではなかったのではないでしょうか。

 小学校一年生から中学三年生の義務教育で、家庭訪問に来られたのは、小沢先生しか記憶にありません。それも一年間に三回も来られました。いま、考えても、一日六名の生徒の家を訪問しても十日間はかかるのです。年三回の家庭訪問だけで一ヶ月はかかるのです。生徒数が多いなかよく訪問ができたと思います。「三年B組・金八先生」みたいな先生でした。いや、もっとすごい先生かも知れませんでした。なにしろ全校生徒二千人が小沢先生の担当になってほしいという熱いまなざしを注いでいました。

 先生の訪問は、なんとなく嬉しく、待ち遠しかったような気がいたします。それは、先生は、私のいいところだけ、母に話すのです。例えば「淳一君はとても素直でいい詩を書く。作文もうまい」。
 実は、私の家の離れに住んでいる、二才年上の赤堀修ちゃんは、小沢先生の教え子で、先生の指導でNHKのラジオ放送で作文が放送されました。

 私の母とは、一時間近くも話していた記憶があります。母は小沢先生のファンになり、「あの先生の教育にかける情熱はすごい、いまどきめずらしい先生だ」と誉めていました。母と先生の会話では、うろ覚えでありますが、「子供は教育を受ける権利があるのだ」とか「悪い子はひとりもいない」と難しい話をしていました。そして、帰りには必ず私の飼っている鳩の鳩小屋も見てくれました。

 そして、次の訪問者の家を私が案内するのです。なにしろ六十名近い生徒の家は全部覚えられないみたいでした。また、同姓が多く、先生も名前で生徒を覚えていたようです。

 同姓ではほろにがい思い出があります。私と同じ巴姓で巴欣一という生徒がいました。この巴欣一がいつも学年を代表して表彰されるのです。このたびに「同じ巴でも淳一と欣一とはずいぶんちがうな」と冷かされました。

 夏休みも終わり、新学期が始まったぱかりのときに、クラスに大事件がおこりました。足に包帯を巻いて教室に来た工藤君が、翌日、突然に亡くなりました。


【最終回】工藤君の死

「日本のこころ」\五年生\(五年生の作文と詩)

「おはか」   
                  田子 勝靭

だんだんをのぼっていったら
むこうのほうから
せんこうのけむりが
上のほうにのぼっていた。
もうだれか来たんだなと思った。
ちかよってみたら
もう、せんこうが4分の1ぐらいしかなかった。
せんこうをだして
手をあわせておじぎした。
工藤君が
雲の上のほうで
「ありがとう。」といっているような
気がした。

 テレビで巨人の工藤投手の顔をアップで見ていたら、ふっと小学校五年生の同級生だった工藤君が生きていたらあんな顔になっていたのではないかと思い出してしまいました。

 夏休みが終わり、始業式に工藤君が松葉杖をついて学校にやって来ました。工藤君は五年生まで一日も学校を休んだことがないのです。足には包帯がぐるぐるまかれていました。
 先生が「工藤どうした」と聞きましたら、工藤君が「たいしたことないよ。ほら、片足でソフトボールだってできるよ」と元気に片方の松葉杖を振って応えていました。

 その日の夜中に工藤君は亡くなりました。病名は「破傷風」です。原因は、私達もよく遊んだ「ぶた池」で、足に釘を通して、破傷風菌が全身にまわってしまったのです。現在のように良い薬があれば死にいたらなかったと思います。工藤君は一人っ子で、お母さんがお葬式でとても悲しんでいました。

 先生は「花月園競輪場ができる前は、動物園だった。こどもの遊び場だったのだ。工藤の家からも近いし……みんな、大人になっても工藤の死を忘れるな」といいました。この言葉はいまでも覚えています。

 「日本のこころ」\五年生\に、「工藤君の死」について、田子君と私の詩が載っております。なぜ先生が工藤君の「死」を二編も載せたのでしょうか。先生はとても悲しかったのではないでしょうか。

 工藤君の死にさいしては、クラス全員が、葬儀はもちろん、各自の自覚でお墓参りにもいきました。そして、工藤君の死によりクラスが自然にまとまりました。勉強ができる生徒ができない生徒に教えるとか、掃除は男子が重いバケツで水を汲み、女子は細かいガラスの端を拭くとか、「思いやりの気持ち」をクラス全員が学びました。また、男女混合のソフトボールも、先生がみんなの意見を聞き、それを実現してくれました。いま、思い出してもとても楽しいクラスでした。

 六十名近い生徒を抱えて、先生は大変ご苦労をされたと思います。特に「作文」や「詩」に力を入れられ、どんな「作品」でも誉めてくださいました。また、私みたいな勉強のできない生徒にも、分かるまで根気よく教えてくださいました。
 小沢先生は、ご健在ならば七十五才から八十才ぐらいだと思います。いま、小学校に問い合わせ中です。ご健在ならば必ずお会いしたいと思います。


小沢先生 その後【1】

 ネットで発見

 小沢先生は二十年前に五十八歳の若さで亡くなっていることが分かりました。私は、がっかりして、何気なく「ヤフー」で「小沢勲」と検索してみました。「あっ、出ているではないか」。まさかネット上で先生とお会いできるとは思ってもいませんでした。その後、いろいろな経過がありましたが、小沢先生の友人であったという木俣様からお手紙をいただきました。その一部をご紹介させていただきます。

「わたしは、かつて小沢さんといっしょに神奈川県作文の会の研究や浸透のための運動をしてきたものです。小沢さんの急逝は、二人で支えてきた柱の一本がなくなってしまって途方にくれたことでした」。

「臼井さんの文集を見せていただき、小沢さんがいたら、さぞかし涙して喜んだに違いありません。教育とは、教え教わるその時点で即決して判断することもさることながら、あなたのように、いつの日か、ふと過ぎこしを振り返り蓄積されたものが熟酵したところで教育を再認識できる、そんな場の持ち得る人の幸せをつくづく感じております」。

「小沢さんは滅法野球狂で、とくに高校野球で、母校、鎌倉学園が甲子園出場を果たすと、日参した記憶が甦ります。こよなく野球を愛する万年青年でした。ですから臼井さんのような活躍の姿をみたら、これはもう堪らないでしょうね」。

 お手紙といっしょに、奈良教育大学「教育資料館」のサイトで紹介されていた『小沢動学級・文集エントツ横浜市生麦小学校五年五組復刻1』(私の十年後輩にあたる五年五組の文集)が同封されていました。この本は、小沢先生亡き後、木俣さんが編集・出版されたものです。小沢先生のガリ版刷りの「エントツ」は私たちの時代からありました。エントツは生麦町のシンボルであると同時に、私たちのころは朝夕に、町の中にレンガ色したそのエントツの煙がおおいました。ほとんどの工場が二十四時間操業しておりましたので、地方からきた人はまず気管支が悪くなりました。私の年の離れた妹は喘息になり、それが原因で一家が生麦を離れることになりました。「エントツ」にはそんな思いも込められています。

 木俣さんのお手紙と送られてきた『エントツ復刻1』を読み終えて、目頭が熱く、熱くなってきました。「ああ、二十年前に先生とお会いすればよかった」。四十五年前の小学校五年生の時に、小沢先生に教えを受けた「一年間」でしたが、私の人生の中で、とても、とても大切なことを教わった“先生”でした。


小沢先生 その後【2】

 故郷・生麦と母校を訪ねて

 木俣敏さんとお会いして、「小沢勲・学級文集エントツ復刻2」を自費出版することになりました。私の友人であります北原さん、金光さんが、「小沢先生の生き方」に共鳴して、「復刻2」の制作に、全面的に協力してくれることになりました。

 木俣さんも「復刻2がこういうかたちで出せるとは思いませんでした。これで肩の荷がおりそうです」と言っておられました。また、木俣さんにとっては小沢先生は「心の許し合える友人であり、作文の会の先輩」でもあったそうです。私は、木俣さんのお話を伺っている中で、「小沢勲の人間的魅力」を一番知っている方だと感じました。
 早速、北原さんと一緒に、私のふるさと「生麦」に、チラシを配布しながら、写真を撮りに行きました。母校の生麦小学校では、校長先生、副校長先生が、突然の訪問にもかかわらず、チラシをみて、快く応対してくださいました。職員名簿で小沢先生を調べてくださり、「ずいぶん永く、小沢先生はいられたのですね」。最後に「どうぞ、学校の写真は自由に撮ってください」と言ってくださいました。

 ちょうど校庭では生徒が「運動会」の練習をやっている最中でした。私も母校の校庭に四十年振りに立ちました。私の時代の運動会は、こんなに狭い所に、父兄も含めて四千人以上の人が集まったのかと思すますと、感慨無量でした。

 また、生麦中学校でも責任の先生が快く応対して下さり、チラシを見て「四十五年前のことですか。私達まだ生まれていません。なにか協力させていただきます」と言って下さいました。
 私の叔父の案内で「海辺」を見に行きました。昔は、漁船がびっしりあった海辺には、乗合の釣り舟がポツン、ポツンとあるだけです。朽ち果てた仕事小屋と海辺の貝殻だけが、ここで漁業の仕事をやっていた証しでした。

 「神野」「内海」「川端」「巴」と同姓の家が、せまい道端に立ち並んでいました。わたしは、小沢先生がこれらの家をこまめに家庭訪問した昔を思い出しました。また、亡くなる五、六年前は、自転車で、せまい路地から路地を勝手口から家庭訪問したそうです。

 三百枚のチラシを配布しながら、午前十一時から午後四時運くまで、よく歩きました。友人の北原さんも私も疲れました。が、とても心地よい疲れでした。



「サタデーリーグ」トップページへ
前ページへ