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第三章 生活綴方に生きて

(6)



「さらば生麦」に添えて

 小沢勲さんは、生麦小学校に十四年間勤めました。当時、横浜市では同一校十四年間勤務すると、他校へ転勤しなければならないきまりがありました。小沢さんは、受持の子どもたちが変わっても、十四年間「エントツ」という一まい文集を出し続けてきました。子どもたちに惚れ、その作文や詩を謄写印刷したものを配り、その都度読み合い、語り合う熱い教育が展開されていきました。
「さらば生麦」は、いよいよ転勤することとなった四月五日。送別式後の校門脇に座りこみ、この一年発行してきた文集「エントツ」のカバー、つまり白い板目紙に、万年筆で噴き出る涙といっしょになぐり書かれた詩です。
 ごく簡素な装幀の板目紙はその後折れ、角など千切れています。欠落しそうになった個所は、セロテープで、ベタベタと留められていました。
 ところが十年も経つと、粘着性がなくなり、変色したテープはきれいに剥れてしまいます。驚いたことに、万年筆で書かれた字の上のセロテープは、その字まで跡かたもなく消し去ってしまいました。そうしたところは、何辺も何辺も判読を重ね、成文していきました。

(木俣 敏)




さらば生麦

ーー桜花咲く生麦小学校門まえにての走り書きーー


1951年春から数えて十有五年間……
ぼくを鍛え抜いてくださった鉄の町、
ノリとアサリの町、生麦の皆様。
生麦町の親御さん・子どもたち、
ぼくは、あなた方とお別れして行かなければなりません。

短かい、たったの十五か年でございました。

林立するエントツ・疾駆するトラック、吐き出る煙、
鉄板叩く音、
パン食い食い出勤する若者、国道駅へ一目さんの禿げおやじ、
へそまで汗垂らし働き抜くとうちゃん、長ぐつ前垂れ姿のかあちゃん、
アサリむく音、ノリすくう冷たい手、戦さそのまんまの朝市風景
ふんどし一ちょの旧東海道、立ち飲み姿の工員さん、一升瓶傾けるおやじ殿、
赤提灯のウチワとだみ唄、
作業着姿そのまんまのPTA会長さん、買物、内職姿そのまんまのPTAおばさん
ベーゴマに興ずるガキ共、箱打ち手伝うガキ共、新聞・牛乳配達のガキ共、
コロッケ食い食い平チャラな下町娘、ゆかた姿の盆踊り花笠娘、
子守娘、ムキ包丁の傷イタイタシイ あの娘 この娘……

口は悪いが、心真っ白な あなた方と、そのお子さんたち……

しいなびた枯葉のような、物知り顔の教員ボクは、
あなた方から得難いものを教わったのでした。
それは、労働者の精神!
義理と人情の下町心意気!

いただいたものの消え去ることのなきよう、
心こめ記録しておきました。鉄の筆で、鉄の板へ。
あなた方の子どもさんといっしょに。
その名は、
「エントツ」。

オレ教育(判読不明)衰える日
「エントツ」をめくります
学者の理屈より、仲間の集まりより、何より真っ先に。

20坪教室と校庭で、オレは微力を傾けた。それからオレは跳び出した。
子どもの見舞いに、仲間学習の具合をみに。あなた方の声を聞きに。
朝となく、昼となく、夕方となく、夜となく、
自転車を走らせ、サッサと歩き、酔ってはふらつき、飲んでは泊まり込み……

あなた方は、よく「小沢さんは偉い」とおっしゃった。
冗談じゃねえ、
2×2が4ぐらいまでしか学校へ行かなかったというあなた方。
35円で売られて来たというあなた方。
東北から、越後から、北関東から送られて来たというあなた方。
すうなり、すんなり育った坊ちゃん先生オレなどには、
一ミリだってわかっちゃいない ご辛苦かたまりの皆さま方です。
あなた方こそ、歴史を支えてこられた方々、歴史を支えていく方々なのです。

ああああ、長すぎた。
漁師魂・職工魂・商人魂は、
酔っぱらったとて、クダをまくことがお嫌いでした。
オレだって、あんた方へのお礼など、いくら書いたところで、切りなんてありゃあしねえや。
ここらで、サーッと黒板消そう。

アッサリ別れようぜ! 威勢よく別れようぜ! 男涙は禁物だ。

さようなら、我が教え教わりし子どもたちよ……
さようなら、おとっちゃん おっかちゃんたちよ……
さらば、
京浜生麦労働者街の春よ。

ーーーー 一九六六・四・五 ーーーー


当時は謄写印刷全盛時代。鉄のヤスリ板に蝋紙をのせて鉄筆で刻字していったものでした。






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